見出し画像

topics5 事例検討会

私の若い頃は、あちこちで心理療法の事例検討会が開かれていた。それもひとつの事例で2時間とか、休憩をはさんで3時間とか、じっくり時間をかけてやっていたように思う。単発の研修会だと参加者が数十名になることもあるが、メンバーを固定した月例会だと数名から十数名で行われていた。

たいがいは司会者がいて、話を進めてくれる。発表者はレジュメをもとに、自分が担当した患者の経過を1時間くらいかけて説明をする。生活歴や家族背景、医療機関を受診するまでの経緯、医師による診断、心理テストの結果、心理療法で関わることになった経緯、臨床心理学的な見立て、心理療法の目標と治療契約、そして心理療法の経過、終結の仕方、治療者としての考察……と、もれなく話す。参加者からの質問や意見もあるし、講師の先生が来ていると助言を受ける。発表者が感想を述べて、お終いになる。

「他人の事例でも、自分の経験と重なるから勉強になる」、そう河合隼雄先生はおっしゃっていた。それは、その通りだと思う。でも事例検討会の発表者は「よろしくお願いします」で始めて、「ありがとうございました」で終える。「今日はみなさんのために、こんな事例を用意しました」で始めて、「お役に立ちましたでしょうか」では終わらない。つまり発表者のために検討する会、になりがちだ。

それももっともで、若手にとっては通過儀礼のようなものだった。いまでは信じられないような話かもしれないけど、昔は病院に勤めていているとカウンセリングを任されるようになるまでが大変だった。心理テストやグループワークで実績を積んで、院長からゴーサインをもらわないといけなかった。やったところで病院の収入が増えるわけでもないし、患者さんの具合が悪くなっても困るからだ。だからうまく行った事例を同業者の前で話せる人は、もうそれだけで一人前と見なされる。

実は失敗例の方が勉強になるのだけど、怖くて出せるものではない。それは事例検討会が、「姑の嫁いびり」だったから。駆け出しの人間にとって、古くからやっている人や、大学の教員はとてつもなく偉く見えるものだ。そういう人たちから、「こういうところに気を配った方が良い」とか、「ここはきちんと〇〇をした方が良い」とか、助言という名の判定を受けることになる。参加者の方はお気楽かと言えばそうでもなく、黙っているのは許されなかった。「変なことを言ったら怒られる、黙っていても怒られる」で、窮屈感が半端なものではなかった。知り合いの精神科医も「心理の人たちの事例検討会がものすごく厳しくて、びっくりした」と言っていた。

病院では、しばしばカンファレンス(ケース会議)が行われる。自分がカウンセリングの担当をしていたら、医師や看護師、ソーシャルワーカーなどの前で、臨床心理士として経過を説明しなければならない。医師は急変で夜中に叩き起こされるし、看護師は具合の悪い患者の世話に追われている。そうした中で上品な?「カウンセリング」をしていると、意地悪な目で見られる面もあったと思う。カンファレンスでも主張できるように、力をつけてきたという自負が先輩たちにはあったのだろう。そう考えるとあの厳しさは、嫁いびりなのか親心なのか、分からなくなってくる。

そう言えばコメントで手厳しいことを言うので有名な、大学の先生もいた。発表者の関りをお粗末に感じると、気の毒な目に遭った患者や家族の方にに同一化してしまうのだろう。患者に共感しろと言っておきながら、目の前の発表者に共感しようとしないのは、どうしたことなのか理解に苦しむ。若い人につらく当たるのは、嫉妬なのかもしれない。コメントをする方も、根性丸出しになってしまうのが事例検討会なのだ。

そうかと言って、発表を拝聴して終わるわけにもいかない。良いところをほめるだけでも良くない。そんな事例検討会だったら、しない方が良い。自分が関わっている人について、ひとりで振り返る力をつけるのが、事例検討会の目的だと思う。自己批判力をつけると言い換えても、良いだろう。自分のことを成熟したと思ってしまったら、もうそこからの伸びしろはなくなってしまう。

そもそも「良い」か「悪いか」を、検討する会ではない。でも何かにつけてダメ出しをしたり、称賛したりする人もいる。自分には評価する力や立場があるんだと、アピールしたいのかもしれない。自己愛にかられているんだろうと思うと、気味が悪くなる。結局のところ「自分はこう理解する」とか、「自分だったらこうしたかも」くらいのことしか言えないし、そこに留めておくのがマナーというものだろう。

事例検討会に出ている中で、学んだことが一つある。それは「臨床では絶対に良いことも、絶対に悪いこともない」ということ。もちろん患者を利用するとか、嫌がらせをするのはNGだけど。良かれと思ってやっても、裏目に出ることはある。苦しまぎれにしたことが、うまく行くこともある。どんな関りにもプラス面と、マイナス面があるだろう。怖いのは理郎論を真に受けてしまったり、「こうするべき」に染まっていって、柔軟性を失っていくことだ。「間違えても良い」でないと、長続きしないと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?