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milestones 5 精神科デイケアを立ち上げた

精神病院に勤めて、二、三年経った頃だった。院長に呼ばれて、こう言われた。

「デイケアを始めるので、あなたがリーダーになって進めなさい」

いきなり、何を言いだすのだと思った。

デイケアとは、統合失調症の患者さんのリハビリの一環だとは知っていた。退院した患者さんたちが、日中を病院で過ごして治療や訓練を受けるということだ。でも当時は県内で二つだけ、国立と県立の大きな病院が実施していた。周りが田んぼの、しかも基準看護も取れないような場末の病院がやるのは無理だろう。それなりに施設も必要だろうし、人もそろえなくてはいけないのに、どうする? それをみんな押しつけられた恰好だった。

施設の方は、まだ良かった。保険点数をもらう条件は、占有する部屋や廊下の広さが数字で定められていた。古いけど、使われなくなった病棟に手入れをした建物が充てられた。問題は人の方で、とくに看護師には困った。いくら院長がやれと言ったことでも、現場のスタッフの理解を得られなかった。面と向かって、こう言われたこともあった。

「患者さんを遊ばせておいて、どうするんだ」

そう、ここは「働く病院」だったのだ。入院して病状が良くなったら、院内作業に出る。ストーブの芯を作る内職仕事だったり、畑作業だった。作業療法で賃金は出なかっただろうけど、レクリェーションでの食べ物とか還元されていたのかもしれない。病院から少し離れたところに共同作業所があり、これはわずかながら賃金が出ていた。一般の事業所で働ける人は、外勤作業に出て賃金をもらっていた。自活できるほどの収入にはならなくても、退院すれば障害年金もあるので、何とかやっていける。

病院に無理やり連れて来られた人でも、薬をのめばおとなしくなって、作業にも出られるようになる。だんだん仕事ができるようになったら、外勤に出て、退院して、共同住居で自活する。これこそが、彼らのイメージする社会復帰だった。それにひきかえ、デイケアは全くのんびりしたものだった。話し合い、軽い運動、カラオケ、調理、散歩、ビデオの映画、ときには弁当を持って温泉施設。当時は「働かざる者食うべからず」で生きている人が、多かったのだと思う。「遊ばせる」ために、病棟の看護師の手を取られてしまう。「そんなのは、けしからん」と、白い眼で見られているのだった。

やっと開設にこぎつけても、通ってくる患者さんは二人とか、三人とか。初めのうちは、そんな感じだった。利用者が増えて何年かすると、だんだんにグループの構成が見えるようになって来た。病歴の短い人は特に何か手伝わなくても、元気が出てくると就職する。それも外勤先ではなくて、職安やコネで仕事を見つけてくる。その一方で病歴の長い人は、デイケアが居場所になっていく。「いつまでも卒業できない」などとは悩まずに、淡々と日常を楽しむようになる。

そんなデイケアを治療と言えるのかどうか、議論はあるだろう。県庁から監査に来る役人からは、しきりに「治療をしているのか」と聞かれた。立場上もっともらしく答えたけど、私はぶらぶらと遊ぶことに意味があると思っていた。いくら病気でも、グループワークの毎日ではたまらない。

それに私は「遊べない人は、働けない」ことを、デイケアで学んでいた。共同作業所に通っている人たちは、黙々と働いてはいたけれど、就職する人はいなかった。スタッフから聞くと、彼らはレクリェーションが嫌いらしい。

「たまには、みんなで楽しいことをしよう」と提案しても、

「いつもと同じ作業の方が良い」

と反対されるそうだ。それでもクリスマス会など、時間の流れを感じてもらう行事はする。いつもの作業の方が良いのに、と渋々参加するらしい。プレゼント交換やカラオケで盛り上がるデイケアとは、大違いなのだった。

デイケアではソーシャルワーカー、看護師、そして私のような臨床心理士と、職種を混ぜてスタッフを作る。その中で心理の役割は、安心感を提供することだと考えていた。統合失調症の人たちは、感情的な言動や生活の変化などで、安全を脅かされると不安定になりやすい。だからまず自分が、デイケアで安心して過ごすことだ。テンパらず、白衣なんかは着用せず、ぼんやりと過ごす。のんびりと散歩をする。カラオケでも歌う。温泉施設に行けば、一緒にお風呂も入っちゃう。大広間で寝転んで、うたた寝をする。

10年もデイケアをしていると、患者さんたちと昔の写真をながめて、思い出話をすることもあった。一緒に年を取っていくことも、臨床なのだと思う。

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