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神崎清編『大逆事件記録 第一巻 新編獄中日記』 「死刑の前」をめぐる旅

さて。

問題の『大逆事件記録』である。大阪府立図書館で借り出してきた。

タイトル画像は古書検索で見つけたものである。なんだかすごいことになっている。私が借りたものはこれほどゴージャスなものではない。いや、もしかしたら箱はゴージャスだったのかしらん。数十年前はいざ知らず、今となっては頁がはがれやすく、実際完全にはがれている頁もあったりして満身創痍崩壊寸前といった体である。綺麗な箱もなければ立派な墨書もない。ゴシックフォントのタイトルだけという殺風景なものである。それでもとにかくも拝借できたのだから御の字である。

幸徳秋水『死刑の前』の自筆原稿(らしきもの)を写していた『世界評論』も探したのではあるが、1950年の第一號〜第三號まではあったものの、肝心の第四號がなかった。後一歩だったのに。かぶりついて見るつもりだったのに。残念でならない。『世界評論 1950年 第四號』を直接拝むには国会図書館に行くしかないのか。それはまた考えよう。

『大逆事件記録』に戻る。


今回借りてきた本はこれになる(ハズ)。

『大逆事件記録』第1巻,世界文庫,1964. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3008665 (参照 2024-12-25)

この『大逆事件記録』は1964年の出版である。サブタイトルが『新編獄中手記』となっているんだが、それはすなわち『獄中手記』の復刻版ということでもある。その『獄中手記』前版はこちらになる。

刊行年:昭和25年(1950年)

あ。あの世界評論と同じ年だ。
あの年に世界評論が発表し、神崎氏も本書で発表したのか。

著者の言葉にいろいろ思わないでもないのだが、そんなものまで全部を書いていると回り道にすぎる。目的は、そう、『死刑の前』である。

もともと本書を参照していたのは糸屋寿雄『幸徳秋水研究』であった。

神崎清編『大逆事件記録 1獄中日記』昭和二五・六 実業之日本社刊三頁以下、および四九頁以下の神崎の解説

糸屋寿雄『幸徳秋水研究』

三頁と、四九頁であるらしい。

まず三頁はというと。
これは『死刑の前』の本文である。

すると四九頁か。
開いてみると確かにあった。
「解説」が。

解説
Ⅰ 死刑の前
日本紙の原稿用紙(四百字詰)二十八枚とじに、毛筆で墨書したもの。署名はないが、文章と筆蹟から見て、明らかに秋水の絶筆と斷定することができる。

神崎清編『大逆事件記録』

ん?
これは糸屋氏が書いていた言葉そのものではないか。糸屋氏はこう言っていた。

日本紙の原稿用紙(四百字詰)二十八枚とじに、毛筆で墨書した「死刑の前」は、署名はないが、文章と筆蹟から見て、明らかに秋水の絶筆と神崎清は断定している。

糸屋寿雄『幸徳秋水研究』

これじゃあ、全く同じだ。私はその「断定した根拠」を知りたいんだが。とりあえず、もう少し『大逆事件記録』を読み進めてみた。

獄中で『基督抹殺論』を脱稿したのち、秋水は、またあたらしく構想をねつて、小著の執筆をくわだてたもののようであつた。堺枯川にあてた「日時があれば、又チョッとした物を書て見たいと思つて許可だけ得た」(明治四十四年一月十日付)という手紙や、田岡嶺雲にあてた「少しづゝ随筆を書きためてみるつもり、時日があれば、小冊子が出來るかも知れない」(同年一月十三日付)という手紙の文面が、これを裏書している

神崎清編『大逆事件記録』

堺枯川や田岡嶺雲に宛てた手紙にそう書いてあった。それは事実だろう。堺枯川や田岡嶺雲が実際に受け取ったものと思われる。だが、それが『死刑の前』なのかどうか。これだけで確定するのは難しくはないか。

秋水自身は、『死刑の前』というタイトルの文章について、何も語つていないけれども、右の「チョッとした物」乃至「随筆」に該當するものと見るのが、今のところ、もつとも確實な推定であつて、ほかにまたあたらしく獄中手記が発見されぬかぎり、この推定のくつがえされることは、まずあるまい

神崎清編『大逆事件記録』

うーん。
「もつとも確実な推定」というのも、なかなか微妙な表現ではあるが。「もつとも可能性の高い推定」と言いたかったのだろうと思われる。推定である以上、断言はできない。断言する要素がないと言い換えることもできるか。

「この推定のくつがえされることは、まずあるまい」とあるが、推定の根拠が「チョッとした物」と「随筆」であるならば、その根拠は弱い。

そもそも先に明言した「文章と筆蹟から見て、明らかに秋水の絶筆と斷定することができる」という言葉と相容れない。「文章と筆蹟」から断言できるのであれば、「チョッとした物」と「随筆」から推定する必要はないはずだ。

四九頁の解説において他に書いてあることと言えば、「死刑の前」の内容について書かれてあるのみである。その経緯についてはわからない。


それでは。

本書の前の方に書かれてある「編者の言葉」を読んでみた。「編者の言葉」そのものはこそれなりに長くて51頁もある。とは言うものの、全てが『死刑の前』について書かれたものでもない。『死刑の前』に関係するところだけ抜粋してみようか。

 世界評論社の藤枝高士氏が、「大逆事件被告の獄中手記のようなものが人民社の金庫のなかにあるそうだ」という情報をもたらしてくれたのである。彼は尾崎秀實の獄中書簡『愛情は降る星の如く』や、河上肇の『自叙傳』をひきだしてきたすぐれたジャーナリストであつた。

神崎清編『大逆事件記録』

え?
世界評論社から持ちかけたのか。
てっきり逆だと思っていた。神崎氏から世界評論社に持ちかけたのだと。世界評論社が『死刑の前』を発表した時に何と言っていたか。

『死刑の前』を発表するにあたり、快く借し與えられた佐和氏ならびに上述の事情を調査して下さつた神崎清氏の御好意に深く謝する次第である。

世界評論社『世界評論 1950年 五月號』

まぁ、どちらから話を持ちかけたのかはわからないが。要するに、人民社に大逆事件の獄中日記があることを、まず世界評論社が神崎氏に持ちかけた。神崎氏が人民社に行って話を聞き原稿を借りた。それを世界評論社で発表した。こういうことだろうか。

人民社のある三木ビルのせまい階段を私がふんだのは、昭和二十二年の七月のことであつたと思う。社長の佐和慶太郎に面會して、「秋水やすが子や新村や森近の獄中手記があるのではないか」とたずねると、佐和社長は、「君のさがしているものは、全部ここにある」といつて大きな金庫の扉を開いてくれた。
 私の目まえに一束の古びた書類がおかれた。手にとつてみると、秋水の『死刑の前』がある。菅野すが子の『死出の道艸』がある。新村忠雄の『獄中日記』がある。森近運平の『回顧三十年』がある。奥宮健之の『公判廷二於ケル辯論概記』がある。

神崎清編『大逆事件記録』

うーん。

見る前から「秋水やすが子や新村や森近の」などと特定していたのだろうか。それとも脚色か。

「大逆事件被告の獄中手記のようなもの」というだけの情報で来たのではなかったか。何があるんだろう、何を書き残しただろうか、秋水はあるだろうか、獄中の心情に触れられるだろうか、そういった不安や期待を抱いた訪問になったのではないかと思うんだが。そしてそれは生涯忘れ難い心情とも思われるんだが。もちろん、それは私の思い込みであるかもしれない。

では、右の獄中文献がどのような経緯をたどって、人民社の金庫に流れこんだのであろうか。佐和社長の語るところによれば、昭和二十二年の一月ごろ、雑誌『真相』を見て、材料を売りこみにきた男から、文献保護の意味で買いとつたということであつた。資料の出所については語らなかつたそうだが、どこかにかくれていた秘密の獄中手記を私の手のとどくところまではこんできてくれたという意味では、まことに感謝すべき恩人である。

神崎清編『大逆事件記録』

『資料の出所については語らなかつたそうだ』

え?
語らなかった?
前には、こう言ってなかったか?

守衛のような小官吏が、もえくすぶる書類の山のあいだに、「幸徳秋水」と書いた原稿のまじっていることに気がついて、「これは、大切なものであろう」と思い、他の一連の書類の束とともに助けだして、コッソリ自分の家にもって帰った

神崎清 著『実録幸徳秋水』,読売新聞社,1971

語らないどころか、思いっきり語っている。『燃える原稿救出説』の方が後から書いているから、例えば時間が経って「もう、話してもよかろう」と思って語りだしたとかそういうことなのか。そういった話さえ何もないものだから、全くわからない。

佐和社長の言明では、遺族がほしがるだろうが、個々の遺族に渡してしまうと散逸のおそれが多分にあるから、一まとめにして大切にあずかつておく。といつて私する考えはなく、将来革命博物館でもできれば、寄付するつもりでいるようである。

神崎清編『大逆事件記録』

ということなんだが。そろそろどこかに寄付いただけただろうか。いろいろに検索してみたんであるが、『死刑の前』の自筆原稿に言及したものがみつからない。秋水に限定せず、すが子、新村、森近、奥宮あたりでも検索を広げるべきか。

佐和文書のなかに、『所蔵者遺言書』というのがまじつている。これは明治四十四年一月二十四日、東京監獄の獄吏が、死刑執行の直前に遺骸の処置や所持品の處分について、一人一人の希望を書きとめたものであつた。

神崎清編『大逆事件記録』

ええ!?
そんなものまであるのか。

そして、その『所蔵者遺言書』も記載されている。少々引用が長すぎるかと思わないでもないが、貴重な資料でもあろうかと思う。転載させていただく。

幸徳秋水
一、房内ニ書キ殘シタル高島圓(註、米峰)宛の書狀發送ノ件。
二、同上筆跡ノ内一枚ハ必ズ郷里ニ送付ヲ乞フ。
三、總テノ物品ハ、全部堺利彦氏ヘ下附ヲ乞フ。

新見卯一郎
四、所持品一切ハ、前記伯父新見己之太郎(註、熊本市新屋敷町傘二番地)へ下附相成度事。

奥宮健之
二、所持品全部モ、同人(註、中澁谷八番地小山六之助)ニ下附ヲ乞フ。

成石平四郎
二、所持の金品ハ、郷里ノ妻(註、和歌山縣東牟婁郡請川村成石むめ)へ發送セラレタシ。

森近運平
二、所持品一切同人(註、堺枯川)ニ下附スルコト。

大石誠之助
二、衣類其外ノ品物ハ、姉(註、井出睦代)ト堺(註、堺枯川)ニテ處分スルコト。室内ニ在ル感想録ハ自宅ニ送付シ、書損ノ分ハ反古トシテ焼却セラレタシ。

新村忠雄
二、室内ニ在ル筆記シタモノハ、平出修に渡サレタシ。

古河力作
二、室内ニ辭世ト『僕』ト題スル書キ物アリ。之レハ特ニ親元へ送付シテ下サイ。但シ、讀み畢ラバ堺利彦へ廻ハシ吳レル様傳申アリタシ。

神崎清編『大逆事件記録』


「高島圓(註、米峰)」

誰?

なんだか唐突だ。今まで秋水の周りで名前を聞いたことがない。と言っても私の知る範囲などたかだかしれてはいるが。とにかく検索してみた。高島米峰(たかしまべいほう)という方であるらしい。

仏教運動家である。『高島圓宛の書狀發送ノ件』とはどういう意味だろう。高島米峰宛に手紙を書いて置いてあったのか。宛先まで既に書いてあったのだろうか。書いてあったような気がする。書いてなければ『高島圓宛の書狀』とは言わないんじゃないか。宛名が書いてあったとして、その宛名、及び書状はいずこに? それに『死刑の前』は? 『總テノ物品』に含まれるのか? 書いたものとその他の私物が一緒くた? 

「筆記シタモノ」・「書キ物」・「感想録」と指定した者もあるが、たとえ指定してなくても、監房内にのこされた手記は、所持品のなかにかぞえていいであろう。

神崎清編『大逆事件記録』

なんだかクラクラしてきた。

なんとなく、ではあるが。

常に神崎氏の推測で進められているのか?

秋水の場合などは、「堺へノ宅下分」と自筆で書いた包み紙までのこつているのに、堺枯川の手にとどいていないのである。

神崎清編『大逆事件記録』

『「堺へノ宅下分」と自筆で書いた包み紙』とは、世界評論に載っていたアレか。

抑留された場所として、頭にうかぶのは、まず大審院である。ふつうの裁判記録が司法省に保管されることになつていたのとちがい、大審院の特別権限にぞくする大逆事件の記録だけは、大審院が審理していて、現在は最高裁判所にひきつがれている。戦争の危険が東京にせまつてきたとき、大審院の貴重書類は、屋根うらの倉庫から一時長野縣の飯山へ疎開されたと聞くが、保管の狀況がわるくて、大切な『公判始末記』や『判決書』原本が見当たらないのは、すでに『編者の言葉』でふれておいたとおりであつた。もし被告たちの獄中手記が、東京監獄から大審院にうつされていたとしたら、この疎開前後、終戦直後の混亂にまぎれて、何人かの手で外部へ持ちだされたものにちがいない

神崎清編『大逆事件記録』

『ちがいない』…………だろうか。
終戦直後の混亂を持ち出せば何でもありになりそうである。

しかし、峰尾節堂の『我懺悔の一節』に、司法省監獄局長あての添書がついており、それが他の死刑囚の獄中手記と一括して人民社へ持ちこまれてきた事實を手がかりにして考えると、司法省の監獄局で保管していたと見る推定の方が、記録の性質と所管の権限からいつても、いつそう有力である。監獄局のあとをひきついだ法務府の矯正保護局と刑務協會に問合せてみたが、當時の責任者がいないので、古いことはわからぬという回答であつた。

神崎清編『大逆事件記録』

え?
峰尾節堂の『我懺悔の一節』?
誰それ。何それ。

『他の死刑囚の獄中手記と一括して人民社へ持ちこまれてきた』

え?
そうなん?
そんなにたくさん?
というか、一括ってどのくらい?

『司法省の監獄局で保管していたと見る推定』

え?
大審院じゃなくって?
司法省なん?

よくわからん。

しかし、『所蔵者遺言書』に見える高島圓あての秋水さいごの手紙が、大審院判事尾佐竹猛の手にわたつた事實を私は知つている

神崎清編『大逆事件記録』

え?
高島圓あての手紙がどうなったのか知ってる?

高島米峰の談話によると、尾佐竹博士がたずねてきて、司法省の屬官にたのんで秋水の手紙をもらつたが、宛名の高島圓の圓が米峰であることを證明してほしい、とたのまれて箱書をしたが、どうも判事の肩書を利用して役德をきめこんだ形迹があるということであつた。博士の有名なコレクションは疎開先の福井でやけ、博士その人も今はこの世になく、その入手経路を明らかにしえないのが残念である。

神崎清編『大逆事件記録』

確かに!
残念です!
しかし。何者ですか? 尾佐竹博士という人は。大審院の判事だったの? 『司法省の屬官にたのんで秋水の手紙をもらつた』って、そりゃ職権乱用しすぎやろ。それは高島米峰に言ったの? そんなことをペラペラ喋るのかというのも疑問だけれども。だいたい、その『有名なコレクション』って何よ。そこに秋水の手紙を入れたということ? 手紙はコレクションしたけど、『死刑の前』はコレクションにしなかったんだ。 尾佐竹博士というは人は、秋水の手紙の存在をどうやって知ったんやろ。

神崎氏の言葉はまだ続く。

問題の獄中手記が、司法省の監獄局で、尾佐竹博士が秋水の手紙をこつそりポケットへ入れてかえれる程度の厳重さで保管されていたことは、もつとも確実に近い推定というべきであろう。しかし、木名瀬典獄が、東京監獄のなかに抑留しておいた場合も考えられないではない。東京監獄は、巣鴨監獄へうつつたのち、その建物がアメリカの軍事監獄に轉用それたために、所管の記録を府中拘置所へはこんだと聞くが、さうした移轉のさいの混雑と無責任な文書保管が、古い大切な記録のうしなわれる機會になりやすいことは、よういに想像できるのである。

神崎清編『大逆事件記録』

容易ではあるかもしれないけれど、あくまで「想像」なのね。終戦の混乱混雑であればわからなくはないが、移転の際に混乱して記録が失くなるということが、あるんだろうか。膨大な量であろうから一つくらいなくなっていてもわからないとか、他の資料に混じり込んだとかはないではないかもしれないけど。何を言ったところで人のやることである以上、常に間違いが入り込む余地はあるんだが。

直観に頼るのは危険だけれども、私の方向探知機は、右の三者のうちで、司法省の監獄局の建物に向かつてうごいている。もし私に特別の捜査権があたえられたならば、監獄局のあとをついだ矯正保護局の家さがしを躊躇しないであろう。法務府の総裁は大逆事件被告の獄中手記その他の関係記録を保管さしていた事實の有無、保管していたとすれば、保管の場所、文書保管の責任者、それがいついかなる機會に、何人の手で外部に持ちだされたか、その間の事情をあきらかにすべき公的な責任を持つものと考えている。この第一巻はしがきも、やがて獄中手記の出所について、説明を加えうるときがくるにちがいない。

昭和二十五年五月 編者しるす

神崎清編『大逆事件記録』

「右の三者」って、何だ。ぼーっと読んでるから混乱する。

  • 大審院で保管されていた

  • 司法省で保管されていた

  • 東京監獄で保管されていた

この三つか。

本来、大逆事件の資料は大審院で保管するのね。て、其の大審院の書類は戦中に長野縣に疎開してるのね。そこで失われた書類もあると。疎開前後や終戦前後のどさくさに紛れて持ち出された可能性もあると。

大逆事件の記録は大審院に保管されるはずであるところ、実は他の裁判資料と共に司法省に保管されていたのではないか。これが著者が一番疑っているのね。ここを疑う根拠は「高島米峰宛の書状」? 尾佐竹氏は大審院判事と言っていたけど、それでも大審院保管ではなく司法省保管を疑うのは『司法省の屬官にたのんで秋水の手紙をもらつた』という一言か。コッソリ持ち出すような人が真実を語るかしらん。

もう一つが、大審院でも司法省でもなく、東京監獄に据え置かれた場合。典獄が監獄に置いた理由もわからないけど。

まぁ、どこに保管されていたにしても、終戦のどさくさで誰かが持ち出すことは簡単だったろうと、そういう結論である。

新たな単語がいっぱい出てきて、私の頭の中は混亂の極みである。

あ、旧字と戰っていたら、変換時に妙に旧字が出てくるようになった。

引用文は、引用時に私が写し違えているという可能性もあるので留意されたし。


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