30年目の、1.17

あれからもう30年になるのかと思うと不思議な気がする。

当時、私は尼崎で一人暮らしをしていた。あの時は会社にいて、データをFDにコピーしている最中だった。

カッタン、カッタン、カッタン、カッタン

FDに転送する音をぼんやり聞きながらコピーが終わるのを待っていた。

ドーン!

その大きな音は外から聞こえた。
まだ夜が明けきらぬ暗い窓の外を眺めながら、こんな時間に誰が太鼓なんぞを叩いているんだろう、などと考えていた。その直後である。大きな揺れに襲われたのは。

とっさに机の下にもぐりこんだのは、小学校時代の避難訓練の賜物だろう。今もってそう思う。上から物がバタバタと落ちてくるのを机の下から眺めながら、ただただ揺れがおさまってくれることを願った。揺れている間は何もできない。立って歩くことはもとより這うこともかなわない。建物が倒壊したらどうなるんだろう。この机は、少しは支えになってくれるだろうか。もしかしたらダメなのかもしれない。そう思いながら祈るような思いでいたが、ほどなく揺れはおさまった。とてつもなく長く感じたが、後から20秒くらいだったと聞いて驚いた。その時その場所が安全かどうかは、ほとんど運ではないかという気がする。

揺れがおさまって外に出てみると、電気も信号も全て消えていた。あの頃、まだ携帯電話は持っていなかったかと思う。固定電話はひいていたが、実家には外の公衆電話から連絡した。まだ6時になっていなかったかと思う。あまり時間を置かずに電話をしたのがよかったのか、あるいは公衆電話を使ったのがよかったのか、実家とはすぐにつながった。とりあえず無事だと伝えることができたのはよかったのかもしれない。日を待たずして電話は急激につながりにくくなる。

それからの二週間ほどのことについては、あまり記憶がない。というか、断片的である。

部屋の中は靴を脱いで上がることはできない有り様だった。とにかく倒れた本棚食器棚は起こしたんだったか。ガラス、食器の破片は集めて大きな紙袋二袋くらいだったか。

ベッドを置いていたんだが、幸いベッドの上はきれいで寝るところだけは確保できた。

コンビニの棚が空になったのはいつだったろう。店内に入ってそこにあったのは棚だけだった。店員さんが申し訳なさそうな顔で迎えてくれる。全く何もなかった。いや、2Lのペットボトルの水が数本と、何故か巻き寿司のパックが一つ丈残っていた。あの時、何故それだけ残っていたんだろう。水を一本と、巻き寿司を一つ。それだけを買って店を出た。

水道も止まった。

あの数日、何を食べて生きていたんだっけ?
トイレはどうしていたんだっけ?
何だかちっとも思い出せない。

一週間ほどたった週末。
母が片付けを手伝いに来てくれるという約束だったが、私が発熱した。なので断りの電話を入れると一度実家に帰れという。実家は幸いに大阪と比較的近い。土曜日の朝、まだ明けきらぬ頃に父母が車で迎えに来てくれた。そのまま、ろくに物も持たずに車の後部座席で毛布にくるまって横になった。実家できれいな布団の上に横になった時、どれほどありがたかったろう。

週が明けて月曜日だけ会社を休んで、火曜日から出社したんだったかと思う。母に手伝ってもらって部屋を片付けたのはその次の週末だったか。それもあまり覚えていない。ほとんど母がやってくれたような気がする。

被災は神戸近辺と局所的である。日本の他の場所には普段の生活がある。あの時着手していた仕事は東京へ納める物だったか。なんとか倒れることなく、機材は無事だったか。それもあまり覚えていない。

テレビは、死者数ばかりを伝えていた。
仕事から帰って報道ステーションを見ては「今日の死者数は…………」といった感じだ。

コマーシャルは、いつのまにか流れなくなった。おそらく自粛したんだろう。それが二月ほど続いたろうか。ある日突然、テレビで報道される内容が変わった。

3月20日。
地下鉄サリン事件だった。


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