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寂しさの心象風景
幼い頃から夕方がとにかく恐ろしくて苦手だった。理由はわからないけど夕方とはそういうもので、みんなもそうだと思っていたから、その恐怖はみんなで寄り添ってじっとやり過ごすようなものだと信じていた。
夕方自体が苦手なのもそうだし、孤独を感じた瞬間の心象風景も、いつも夕方のオレンジ色だった。
これは今もそう。
みんなそうだと思っていたから確認するまでもなく過ごし、みんなはそうじゃないということを知ったのはけっこう大人になってからだった。そしてこれがかなりの衝撃だった。寄り添い耐えるどころか、わたしには寄り添う仲間もいなかったのか、と。
夕方の恐怖より、みんなは違うと言われたことが出口のない異世界に飛ばされたみたいに不安だった。
今は夕陽や夕焼けの美しさを求めるようになったから、飛ばされた異世界で以前の私は少しずつ侵食されて、もう全然別の自分になってしまったのかもしれない。
私が少しずつ塗り替えられて、あの焦燥感や胸が握りつぶされるような切なさや、どこからやってくるのかわからない感情に出会うことはもうないのだと思うと、安堵と寂しさを感じる。
感じなくなればきっと感じていたことも思い出し方も忘れてしまうから、表現することは叶わなくなる。
心が穏やかで幸せなのはいいことだろう。
きっといいことだろうけど、あの感情は確かに存在したわたしのものなのに、思い出すことも叶わなくなるならわたしが感じた苦しみや痛みや美しさは、あの苦々しくも特別な瞬間はどこに消えてしまうのだろう。
幸せからは少し離れても、
苦しみと共にある美しさを表現するために一生苦しみ続けることを選んだ人たちの気持ちがほんの少しだけわかるような気がする。
もちろんそんな覚悟はないけれど。