12年前の今日
あの日、学校から帰ると母は泣いていた。両親の泣いた顔など見たことがない僕にとって、それは驚きを隠すことのできない出来事であり、居心地の悪い空気だった。状況の掴めなかった僕は、怪訝な表情を浮かべていただろう。
仙台市の中心街から高速道路に乗り約1時間。仙台空港のある名取市までの道のりは、長閑な田園風景と住宅街が広がり、その少し向こうには海が顔を出す。あの港町の景色が、僕は大好きだった。
しかしテレビに映る「大好きな港町」は、僕の知る街ではなかった。
時刻は14時54分。濁流に飲み込まれ、辺りはどす黒い海水と、漏れた油による火災で、地獄のようだ。地獄絵図というのはこういった場面の事を指すのかと、その時になって腑に落ちた。
ヘリコプターからその様子を中継するアナウンサーは「今すぐ高台へ避難を」そう繰り返すだけだ。その中継の間も逃げ惑う車の数々が波に飲まれていく。
世界の終末の映画でも見ているようだった。当時小学生3年生だった僕には、現実か映画かの判断が一瞬で出来ない程、凄まじい映像だった。
------僕には、仙台市に住む祖父母がいる。毎年、遅くても大晦日には祖父母の家に行くため、出身である石川県で年末や年明けを過ごしたことはほぼない。当時もつい2ヶ月前に訪れたばかりで、祖母が作るカレーやすき焼き、栗きんとんをたらふく食べて幸せな年明けを過ごした。
そして大好きなあの港町を通って帰川した。
ほんの少し前に見たあの景色は空想だったのか。何か夢でも見ているのか。頭では整理できず、感情が先走って口に出た。
「これ、何?」
母は剣呑な面持ちで答えた。
「14時46分、宮城県沖で大きな地震があったの。ばあちゃん達もお姉ちゃんも、連絡取れてないから、無事かわからない。」
ことの重大さにようやく気がついた。映像から嫌な予感はしていたが、まさか本当に現実だとは。
また心配な要因はもう一つあった。昨日、父が仕事で宮城県の岩沼に向かったのだ。岩沼も同じく津波で埋まっている。すぐに電話をかけたがなかなか繋がらない。
もしかしたら、、という不安が先行し、胸を圧迫する。父の心配をしている間も、津波は石巻や、南三陸町、宮古市、相馬市、など全てを飲み込んで行った。
兄も帰宅し、3人で父に電話をかけ続ける。
そして数時間後、父との電話が繋がった。道中で予定が変更になり、群馬に向かったのだという。
安堵すると同時に、今度は宮城の祖父母や親戚、友人への不安が募る。今すぐにでも飛び出したい気分だった。
可能であるならば助けに行きたい。しかしそれが出来ない自分の無力さ、悲しさに、毎分打ちひしがれた。
結局電話が繋がったのは3日後で、全員の無事が確認できた。ライフラインは壊滅で、夜はろうそくの火を頼る。また相当な厚着をしなければ凍えてしまう。3月の東北の夜は寒い。
だがそんなことよりも「生きていたこと」その事実に、誰に向けたか分からない感謝と、涙が出るほどの安堵が僕たちの心にあった。
その後、どうにか食べ物や水を届けたく、荷物を送ろうとするも東北方面への配送はしばらく見送りだと言われた。助ける方法は僕たちが向かうことのみだ。
父は迷わず行くことを選んだ。車いっぱいの物資を詰め込み、仙台へ向かった。
生きて再会した祖父母達は、前と変わらず笑顔だった。今だけは石川に避難するよう説得したが、「この街を見捨てたくないから残る」の一点張り。
当時は理解し難かったが、今になればその気持ちも理解できる気がする。
数日を変わり果てた仙台で過ごし、帰宅した。
帰りはあの港町を通った。田んぼと住宅街など少しも残っておらず、瓦礫が海岸線を遠くまで埋め尽くす。しかし海だけは以前と変わらず瓦礫の隙間からのぞけた。
その海はただただ腹立たしかった。多くの人を殺し、奪い去ったその海に向けた憎しみは今になっても忘れず心にあるような気がする。
またその景色を見た瞬間、神様などいないのだと悟った。こんな不幸を誰が望むのか。誰が好きでこんな大災害を起こすのか。元々信じてはいなかったが、確証を持てた。
自然は自然であり、人間は自然には勝てないのだと。
この時、東北の人々は、誰が邪魔しようと敵わない絆で結ばれているように感じた。全員が助け合い、励まし合い、決して明るいとは見えない未来に向かって立ち上がっていた。誰1人置き去りにすることなく。
その姿に感動したのを覚えている。人間というのはこんなにも素晴らしい生き物なのかと。
また東日本大震災が起きてしばらく、日本と世界も団結していた様に見えた。様々な国から、助けがきて、手紙が来て、物資が来て、日本はこんなにも愛されている国なのか。と対象は自分ではないのに、自分であるかの様に嬉しかった。
現在のそれぞれが孤立している雰囲気を見るとがっかりする。国同士だけでなく、日本人同士もだ。人間同士で潰しあって、誹謗中傷の嵐。匿名で誰かを叩いていい気分になって。
そんなこと当時の人たちが見たらがっかりするだろう。
きっとやればできるはずなのに。
この出来事で学んだことは、僕たちはこの日亡くなった人たちの分まで、精一杯生きなければならないということ。
みんなが生きたかった明日を、僕たちは生きられる。
明日を生きるチャンスがある僕たちが、今を精一杯生きないのなら、空に逝った彼らに合わせる顔などない。そんな資格はない。
だから今日を、明日が来なくてもいいと思えるくらいに、本気で生きる。そう心に決めた。
いつ死ぬかなんてわからないのだから。
その瞬間、瞬間を本気で生きることにきっと意味がある。
今、死のうと思っている人がもしこれを読んだなら、考え直して欲しい。
この日に亡くなった人に限らず、みんなに生きたかった理由がある。生きたかった明日がある。
今日何か嫌なことがあったなら、それはもう忘れていい何かだ。僕の好きなバンドの歌詞に
「今日は明日、昨日になる」という歌詞がある。
この言葉の通り、僕たちが本気で生きた今日は、明日には昨日になる。そしたらまたやって来る今日を本気で生きればいい。
僕たちにできるのはそれだけしかない。
もう一つ学んだことがある。それはこの出来事を忘れてはならないということ。
これからも続く今からの世代に、このことを伝えなければならない。かつてこういう人たちがいたこと。そして世界中が日本を助けようとしてくれたこと。
人には本来持っている優しさがあるはずだ。この時、人間の優しさが垣間見えた様に、誰しもが持っているはずだ。
それを何かで押さえつけてはいけない。
震災当時の優しさを、「表面上」であったり「綺麗事」だという人ももちろんいるだろう。でも僕はそうでないと信じる。
人の本質的な優しさであり、本来持っているものだと僕は思う。
それを周りに向けられる様な、どの国に行っても誰もががそうできる様な、そうしてくれる様な世界になったら、、
と願うばかりだ。僕たちももちろん、今からの世代でこんな世界を創造していきたいと僕は思う。
それが僕なりの今を生きる意味だから。
今は 2023年3月11日。
時刻は 14時46分。
当時のことを忘れないために。
そしてこの文を読んだ誰かが、明日に向かって進もうという意志を強く持てる様に。
誰かが、変われるように。
この日記を書く。
あとがき
ほぼ殴り書きで書いたので文章はバラバラで感情は丸出しです。
見直したりもしてません。
そして実際に被災したわけでもないのにこんなことを書いて、被災者面してんじゃねーよって思う人もいると思いますが、僕が伝えたいのはそういうことではありません。
ただ、言葉にならない何かを、言葉にしたくて書いています。
そこだけ分かってください。
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