イタリアで見た共通のもの。
•子供との約束
日本で、約束をする時のお決まりの仕草。
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本のーます。ゆびきった!」
私はイタリアで出会った女性とナヴィリでピザ(もといピッツァ)を食べ、
流れる運河の折り返し地点のようなところにある公園で2人、並んで座っていた。
脚を下ろし、まるで椅子に座るかのように座った。
下ろしたその脚は、ギリギリ河に付くか付かないか、くらいの加減で、
もしかしたら落ちてしまいそうな距離感に少し怖がりながらも
下ろしたら下ろしたで、気持ちが良かった。
私の英語力不足のせいで、会話はあまり弾まず、黙っている時間が多かったり、
運河にいる魚達を見て、あれは大きいとか、小さいとか、そんな取り留めのない、会話をしていた。
少ししてから私が「トイレに行く」と言い席を立ち、
近くのバーのトイレを借りた。
用を済ませて元の場所に戻ってきたら、彼女は小さな男の子と会話をしている。
内容はイタリア語で分からないが、
その男の子(だいたい3歳くらいだろう)は何かに不満げな様子だった。
その子供と彼女は何かを話し、子供は時々に私を見る。
だから私は何に対して、何の感情を抱いているのか分からず、彼に合わせて表情を変えて相槌を打った。
彼が困っている顔をしているときは、私も眉間にシワを寄せ、口角を上げる。
彼が笑っている時は、目尻を細め、歯を見せる。
彼が悲しそうな時は、眉尻を下げ、口角も下げる。
そして沢山頷いていた。
そのうち、後ろから母親が来て、
私たちに挨拶と感謝を伝えながらしゃがみ、後ろから子供を抱いた。
真っ直ぐに伸びた髪は腰の少し上くらいまである茶色で、
顔の大きさに対して少し大きい口は、笑うと白くて綺麗な歯並びを披露してくれる。
目尻のシワは深く、”よく笑う人”である印象を受けた、美しい人だった。
その母親は、地面にぺったりと座る子供の頭の頂上に自分の顎を乗せて、何かを話している。
諭しているようだった。
子供は不満げながらも、母親の話を聞き、頷いていた。
話が終わったと思った時、母親は、
その優しさや温かさのある笑顔を子供に向け、小指を差し出した。
子供は短いカッパえびせんくらいしかない指
(例えがこれしか出てこない私の語彙力の無さ)を重ね、そして握った。
私たち日本人のいう「ゆびきりげんまん」。
これまでの人生で何度も見てきた光景を、
全く違う文化の、違う人種が、同じ行動をしている。
話の内容は分からない。
でも、何かを約束した事はわかった。
叱るわけでもなく、怒るわけでもない。
彼女は子供の頭を撫で、髪を触り、そして諭し、約束をした。
妙に美しい光景だった。
優しさに満ちた空間に急に放り込まれたみたいに感じられた。
それよりもその行為が世界共通であることに驚いた。
これは本能的なものなのか。
誰かが決めた事なのか。
不思議に思ったものの、他の生物から見たときに、
“ヒト”はそれ程変わらなく見えるだろう。
だからこれはきっと些細なことかも知れない。
でももし、この行為の起源や、始めた人が日本とは違って、
でも結果的な動作が同じだったら、と思うと
少しロマンチックに感じられた。
世界なんて、全然変わんねえじゃ〜ん。
これが私の結論。
実に浅い。
でも本質だと思う。
私だけがその行為を見て、その場の人とは違う感情を抱き、去っていく親子を見つめ、
また彼女と話していたら、声をかけてきた男性がいた。
その男は自転車に乗っていて、その自転車に乗ったまま私の近くに来て声をかけてきた。
全身に、顔まで抜かりなくタトゥーだらけの男だった。
「マリファナいる?」
要らねえよ笑笑笑笑
補足しておくが、私は眉毛がなくて、ついでに髪の毛もないが、タバコしか吸わない。
彼女達のおかげで、それすらも楽しく素敵なことに感じた。