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青少年との関わりは、子供とは違うー

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ホーノキアトリエは、霧の中で満月🌕。
昨日は→アチャ←コ(17歳)の映像撮影最終日。出演者も17歳の女の子で、雨の中色々な場所を巡りながら途中疲れたり、気持ちが上がったり落ちたりしながらも、無事深夜に撮影を終えた。帰りながら彼女らとの関わりを考えていて、今日のメルマガは青少年について書いてみようと思う。

→アチャ←コ撮影風景

当初は青少年も子供と同じように接していた。私は子供らとアトリエにいる時は、フラットで素の状態でいるようにしている。子供らは私にそこまで興味関心を持たないし、持ったとしても瞬間的ですぐに過ぎ去っていくことが多い。私が大人と場を共有できないのは、大人は私という存在に対して無関心ではいられないからだ。創作の場で他者の関心に対応することは難しい。私が気が利かず人の心の機微というものに無関心なため、人に上手く心を配れない。

アトリエで中高生に私から働きかけたり、介入することはあまりない。彼らは自分の領域を持っているし創作に没頭していて、私の助言だとかを必要としていない場合が多いからだ。なので殆ど青少年は放置して、私は自分として素の状態で過ごしていた。

けれども、どうやらそれでは駄目らしいということに昨年気づいた。介入せずとも私の影響は子供以上にあるようで、それは彼らが私をとても意識しているからだ。思い返せば私も中高生の時は学校の先生や大人をとてもよく見ていたし、自分なりに判断していた。それは自分も大人に「判断されている」と思い込んでいたからだったと思う。

私がアトリエであまりにも素で居ると、青少年にとっては粗野すぎるようだ。関わらずとも常に私の人間性に注意を向けている気がする。私の波長はおそらく独特で、それゆえ学校にも会社にも馴染めなかった。私は別段気にしていなくとも、周りが私の存在によって徐々にざわめいてゆく。反抗的なわけでも自分本位なわけでもないが、何故か毎回そうなる。昨今だと発達障害だと言われるケースだろう。だから今こうして、子供らの中に一人混じっているという状況に至った。私が心持ちをフラットにしてさえいれば、子供らは私の波長など関係ない。それぞれが違う波長で存在できることをわかっているし、何より自身の波長の中に信頼感とともにどっぷりいるからだ。

青少年はすでに大人に近く、私を意識外に置くことはできない。まあ、よく考えればそれはもっともな話だ。大人になるとは他者に意識を向けていくこと。以前「あゆきさんとは波長が合わない」と言っていた高校生を思い出す。その時は「個々の波長なんて合うはずないでしょ」と思っていたのだけれども、そういう私の冷たい粗雑さはどうやら傷つけてしまうみたいだ。

なので、私は青少年以上の人とアトリエに居る時は、これも心持ちに過ぎないのだけれども調和する意識を持つようにした。調和する意識を持つというのは、私なりの感覚で言うと”他者に対して1割くらいの意識を相手に分ける”ような感じだ。それが上手くいってるのかどうかは、よくわからない。まあ、私ができるのはこれくらいしかない。人に気を使ってアトリエに居ることは、今度は私が自己を損なってしまう。

ちなみに小学生の子供らは集団意識が創造における個性を邪魔することになっている場合が多いので、むしろアトリエでは「非調和」的であることを推奨している。子供は簡単に社会や集団性に呑まれてしまうからだ。青少年に対しては逆に、互いの距離を近くするような対応をしている。彼らは個性が呑まれることを恐れて「個」を保とうと、孤立しすぎる傾向にある。青少年は同世代との関わりが最も難しいだろうし、下手すると大きな痛手を受けるということをわかっているからだと思う。青少年相手にそりゃ大人は優しく接してくれるだろうが、多少削り合ってでも同世代と関係を持つことは、人間関係というイメージが大きく変わるだろう。それは即ち、人生が変わる。

私はアトリエの中高生に対しては創作面でのみに関わっているため、さほど気遣いなどはしない。彼らの私生活には興味も関心もないので聞かないし、創作においては対等でしかないからだ。

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