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地域福祉とは「いつも、あそこに行けば誰かいる」
ぼくが、この12年間地域福祉で見てきたこと、そしてやってきたことを振り返ると。
昨日まで見ず知らずの人たちが、ちょっとしたきっかけで知り合い。
そして、そのきっかけからゆるやかにお互いを知り合い、時を重ね、誰かが困っているときは手をさし伸べたり、また手をさし伸べられたり。
それがすごく自然で、やってあげた、やってもらったと言う関係性ではなく、本当に自然にその行為が行われていく。
なぜだろう、なぜなんだろう?
いまだに、よくわからない。
ただ1つ言える事はそこにいる人と、そこから生まれる空気。
そこにいる人と空気が、そこにいるみんなで楽しむには、どーしたらいいか、を自然と考えはじめる。
それが「地域福祉」なのかもしれない。
そのゆるやかに合う頻度もとても大事。
毎日のようにあったり、割と密に定期的に会うようになると喧嘩したり、会うこと自体が億劫になったり面倒になったり。
ぼくはこの12年間、毎月1回リアルで会うコミュニティを何かしらやってきた。
この毎月1回、月に1回と言うのが、ぼくの中ではとても心地の良い感覚。
月に1回程度しか合わない人が喧嘩する事はあまりない。そして合わない時は、SNSでお互いの日常を知ったり、日々の出来事をやりとりしたり。
人のつながりには何層もグラデーションがあると思う。この木の年輪のような人のつながりのグラデーションを持っていることによって、ぼくは人生が豊かになるんではないかと思う。
強いつながりは、ごくごく少数でいいと思う。たくさんの人たちと強いつながりを持ったら死ぬとき大変だ。どんどん周りが死んでいくときの気持ちを考えたら切なくなる。老いると強いつながりは少しのほうがいいかもしれない。
「あの人先週亡くなったみたいよ」「毎月1回あそこで一緒に遊んだよね、ご飯食べたよね」
「いい人だったね」
そんなゆるやかなお別れが1番いいんじゃないだろうか。
人間は老いていく過程で、自分ができないことが増えるのを感じる瞬間が少しずつ増えていく。
それは切なくもあり虚しくもあり、死ぬことが近づいてるんだと実感する瞬間でもある。
例えば、ぼくが人とのつながりがなく毎日1人で過ごす時間が長ければ、そういった切なさや、悲しさを考える時間が1日の大半を占めるだろう。
もしそうなったら、ぼくはどうなんだろうか。
どうなるかは想像ができるだろう。
老いがあったって、病気があったって、障害があったって、嫌なことがあったって、ちょっとしたゆるやかなつながりがあって、それが月に1回あって。
日常の嫌なことなんて、そんときはどっかに置いておいて、その場を楽しむ。
お互いそんなに深くも知らないし、過去も聞かない。
いつ来ても、いつ帰っても、しばらく来なくても、そしてまた来ても。全てオーケー。私たちは毎月1回そこにいるから。
「じゃ、また来月ね」
この言葉が、ぼくは大好きだ。
また来月、あそこに行く場所と、会える人がいるんだから。
そんなコミュニティ(地域福祉)を、ぼくは仲間と一緒に死ぬまでつくり続けたい。