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【自己紹介】 生い立ちと今後の目標

はじめまして,21歳一般主婦です。

簡単に自己紹介。
かわむらあゆ と申します。

2003年生まれ,職業は主婦&大学生です。
趣味は読書,空観察・撮影,被写体活動,バスケ,ゲーム(特にマリオ・ゼルダシリーズ),音楽鑑賞(レゲエ・HIPHOP)など。

現在は主婦という肩書きのもと,気象学の在野研究,と気象予報士試験合格に向けて勉強をしているところです。お洋服も大好きなので,その時々に合わせたスタイリングやヘアメイクにも関心があります。

「自身のポトレ被写体写真と空写真・解説を交えた他にないZINE制作」が現在の目標。

今年8月の気象予報士試験で無事合格できたら,この目標に向けて本格的に動き出したいと思っています。興味のある方,ご協力いただける方,もしいらっしゃったらコメントやDMいただけたら幸いです。

生い立ち(A面のみ)

先日,今年度で「大学を晴れて退学する」ということで記事を書かせていただきました。

この記事を投稿後,私が大尊敬している後輩の一人から,

「私たちだけでも自分の過去の選択に正解だと言いましょう。」

というコメントをもらい,改めて自分の苦しかった過去や引け目に感じるような弱みも隠さず,オープンにして本当に信頼できる友人,先輩,仲間を大切にしていきたいと思いました。
(それにしても,どうしてあの後輩はあそこまで信念を持って生き続けられているのだろう。そんなミステリアスさと,熱意にいつも心を打たれていたりします。)


小学生時代(バスケ)

私がバスケを習い始めたのは,小学校2年生の頃です。

私には2個上の兄がいるのですが,兄が地元のサッカークラブに入るというので(結果的にサッカーはやらず後に私と同じミニバスチームに入るのですが),母から「あゆも何か習い事やってみる?」ということで当時通っていた小学校の体育館で活動していたミニバスチームに入ることにしました。

同じ市の別の小学校には新体操のクラブがあるということでそちらも候補に入っていたのですが,先にミニバスの練習を見学・体験しに行って小学校同期の知り合いが沢山いたので,ここに入ればお友達ができるかも!という安易な理由で(新体操の方は見学すら行かずに)ミニバスを始めることになりました。

バスケを始めるというと,大抵の場合誰かに憧れて,とかモテる(≒格好良くなれる)かも,みたいなのが王道だと思うのですが,私の場合,目的は友達作りでした。


そんな私も当時週刊少年ジャンプに掲載,アニメ化されていた「黒子のバスケ」に兄と一緒にどハマりして,試合の勝敗よりもいかに自分がかっこいいアシスタントや得点ができるかにこだわっていました。
※念の為補足しておきますが,作中の登場人物たちは必死に試合に勝つことに向けて練習をしています。

私はその作中の部分的なところを切り取って,女子にしては珍しいほうなのかもしれませんがとにかくかっこいいプレーをしたくてそのために練習をしていました。

結果的に膝の成長痛や足首の怪我,このまま続けていてもどうせプロには成れないだろうしな,という諦めで中学1年の途中で女バスを退部することになるわけですが,

ミニバス時代はコーチや保護者(チームメイトの親御さんたち)にその「かっこつけたがり」な性格を悪い意味でよく指摘されていたのが,女バス時代の顧問はその性格をむしろ面白がって基礎力では他に劣っているはずなのに中学1年生にしてユニフォームをもらってほんの少しですが試合に出してもらったりもしました。期待を裏切る形ですぐに辞めちゃったけど。。

今でもそういった,目立ちたがり特性みたいなものは変わらずあるのですが,このバスケをやっていた経験は今の趣味になったこと以上に,指導者によって評価するポイントが異なること,そして上下関係(礼儀・挨拶)の大切さを知る上でとても役に立ったと思っています。


中学時代(勉強・高校受験)

中学校に入学してからは,すぐに部活を辞めて帰宅部になったので,暇つぶしと言ったら怒られそうですが地域のボランティア活動に参加したり生徒会役員としていわゆる優等生と呼ばれるような日々を過ごしていました。

この時期での印象的な出来事はやはり,生涯かけて恩師だと言える教員(K先生)に出会えたことだと思います。

K先生は当時学年主任として学校生活のサポートはもちろん,理科の授業で日頃目にする身近な自然現象と,それを科学的に理解していくことの面白さをお手製の百均創作グッズを使って説明してくれました。

K先生の授業を受けていて理科面白いかも!と感じていたのもそうですが,当時私にはおなじクラスに好きな子がいて,その子が学年でもトップクラスに頭がよく真面目で優秀な人であったというのも私が勉強を頑張るきっかけになりました。
(そのあと呆気なく振られちゃったんですが,失恋後も色々な場面で相談に乗ってくれて,本当に感謝してます。今でも憧れの存在です。ありがとう。)

そんな彼に少しでも追いつきたく,K先生に試験対策のやり方を相談させていただき,最初は40点代から60点代後半になる程度のものでしたが(※書き忘れていましたが,私は小学生の頃授業をサボって校庭でバスケをするような若干問題児でして,中学校入学以降授業内容についていくのに必死でした),

何回か試験勉強を重ねていくうちに安定して90点代を取れるようになりそこから他の科目の試験勉強にも1ヶ月前から計画的に取り組むようになりました。

他の科目でも安定して高得点を取れるようになるに従って,「何かを学んで知識を増やしていくこと」の面白さを実感するようになりました。

でも,後に残ったのは高校受験不合格でした。

とはいえ,今でもこの時期が一番充実した3年間だったと振り返ってみて思います。

受験に落ちた,というのは私の人生の中でとても重要なイベントだったように感じます。
卒業式に向けて,無事受験に合格したものと,私と同じく志望校に不合格だったものが同じ空間で合唱練習をしなければなりませんでした。

落ちたから悲しいし悔しいけれど,だからといって合唱練習含めて卒業式の準備を怠るわけにはいきませんでした。

在学中生徒会役員を務めていたため,いくら受験結果が思い通りのものでなかったにしても学校内では模範的な学生であるように心がけていたので,最後の最後で締まりが悪いのは勿体無いと感じていたのもあります。

この受験経験は,私にとって不合格だったこと以上の意味がありました。

私は受験校に志願届を出す2ヶ月前に第一志望だった高校から第二志望の高校に志願変更しろという指示を受けました。
もちろん受験料や学費を負担してくれるのは親だったので,その指示には逆らうまでもなく,それまでに学力を十分に上げることのできなかったツケが回ってきただけだと感じていたので第一志望の受験は諦めることとなりました。

そこから私の受験勉強は惰性で続けることとなり,最終的にカンニング癖(試験本番でこそできませんでしたが,塾の課題は事前に解答解説を調べてから授業に臨むようになりました)がついてしまったりと,とにかく散々な2ヶ月を過ごしました。勉強もしているフリだけで音楽ばかり聴いていました。

試験本番が近づいてくると,(元は自身の学力不足のせいだと思っていたのに)次第に不本意受験をさせられているような感覚になり,
途中からここで落ちれば周りに迷惑をかけられて第一志望を諦めさせられたことの復讐ができると考えるまでになっていました。

最悪だなと自分でも思いますが,結果的に公立高校への進学を優先して受験校変更をすることになった結果,ランクを下げた高校にも落ちるという,子供としては親に酷い仕打ちをしたなと思っています。
実態としては落ちようとして落ちたわけでもなく,落ちることを望んでいるうちに合格する選択肢をも失ってしまった,というかんじです。

それでも,私にとって第一志望であった高校は私が中学1年生の頃からずっと恋焦がれて目指してきた場所だったので,結果論に過ぎませんがどんなに成績が芳しくなくても,第一志望を受験すべきだったのだと思います。

全力で挑んで,それでも届かなかった,という結果のほうがよっぽどマシでした。
最後まで頑張り切る機会を失ってしまった代償は,想像以上に大きなものでした。

そんな捻くれた考えと,親へのある種恨みのような感情をこの時に覚えてしまったせいで,中学卒業以降は「大人」という存在を常に馬鹿にし,信頼しなくなっていきました。
思春期・反抗期という意味では良いきっかけだったのかもしれませんが,真っ直ぐに努力することから逃げるようになってしまったのは今でもずっと後悔しています。


高校時代(科学部・課外活動)

高校入学後,高校受験に落ちた腹いせに漠然とですが「私は他の同級生とは違うんだ」ということを証明したくて必死でした。

大学受験で高校受験のリベンジを果たしたいとも考えていたので勉強も引き続き力を入れることになるわけですが,私が課外活動に積極的に参加するようになったのもまた,自分は他とは違うという主張をしたかったからに他なりません。

高校2年の頃に在学していた高校の科学部で部長を務めることになり,また当時科学部は廃部の危機(部員が5人未満になる)を迎えていたので,
高校3年生になってすぐに新入生の各クラスに部員募集のチラシを配り,時には担任の先生に頼み込んでHRの時間に部活の宣伝にもまわりました。

大して目立った活躍をしているわけでもないのにInstagramで科学部アカウントを作成し,片っ端から新入生をフォローしては新入生からの質問を募集して「新入生お助けアカウント」として運用したりもしました。
質問に答えては,途中で部活動の写真や活動内容を解説して,といった具合にスパム認定スレスレのところでやっていたのです。

それでも高校の帰り道,私たちが作成したチラシが捨てられているのを見ては悔しい気持ちで拾うことも幾度かありましたが,
この胡散臭い部活動勧誘が功を奏して当初「新入部員3人」をノルマにしていたにもかかわらずその3倍の,9人の新入部員を迎入れることに成功したのです。
ひとまず,科学部廃部の危機を脱することに成功しました。

次に来る課題は,そこから退部者を極力出さないことです。なぜなら自分の代で廃部は絶対に避けたかったから。

この頃には科学部での活動が私の居場所になってきていたので,退部者を出さないためには部活動の内容は勿論ながら私が後輩たちから信頼されるような人間になることが目標となっていました。

実際にそうなれたか自信はないですし,振り返ればこれは私の自己承認欲求を維持するためのエゴでしかなかったわけですが,
この承認欲求の強さのおかげで静大GSCやN/S高研究部などの課外活動のモチベーションを維持して継続できたと思っています。

一方で,こんな不純なモチベーションの維持のしていたことが大学入学後の喪失感にも繋がりました。

大学時代(学部1-2年)

大学に入学後,高校時代に引き続き自主研究を継続・発展させるべくあらゆるイベントや団体に顔を出したり,宇宙天文分野のベンチャー企業でインターン(アルバイト)をしていました。

なんとなく気付いてはいましたが,大学の授業や課題に追われ精神的に疲弊している現実から目を逸らすために,学外での活動に専念していくようになりました。

こんなこともあったりで途中から心がやられ,日常生活が送れなくなり,体調が悪い日が続いて気づけば大学も,学外での活動も何も手をつけられなくなっていました。

要約すれば,「生き急いでいた」ことによる大学生活の崩壊です。

大学休学から退学するまでの流れは,「大学を退学します」で詳しく書いたので興味があれば。


現在とこれから【本題】

21歳,大学3年の代で退学するともなれば,今後どうしようかという悩みがあります。
あえてこの記事はすぐにSNSで拡散せず時間をおこうと思いますが,来年度は他の通信制の大学に再入学する予定で準備を進めています。

一方で20代のうちに「気象キャスターをやりたい」という夢があるので,このための気象予報士試験合格や民間気象会社でのインターンなどの機会があれば,私は大学生活よりもこちらを「機会」として優先するつもりでいます。

極端な話ですが,希望する仕事ができるのであれば大学進学・卒業は遅れても良いというスタンスです。

とはいえ一度目の大学生活と同じ過ちを繰り返したくはないので,暮らしの前提に大学卒業に向けてのノルマを日々消化しつつ,家事や休暇の合間に余力があれば他のことにも精力的に活動して行きたいですが,これは大学卒業や希望の仕事をすることより優先するものではありません。

衣食住の次に仕事と大学があり,その次の次くらいに課外活動,といった具合です。それでも通信制の大学は勿論,主婦と通信制の相性や仕事をする時間的体力的余裕は大学に入学してみないことにはわからないので,ここらへんは臨機応変にやっていこうと思っています。

21年間の「失敗の集大成」を,これから発揮する機会がようやくやってきました。
これからはその人生22年目の私についてを書いていけたらと思っています。
今後ともどうぞよしなに。

サムネイル:@ikura_17 撮影

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