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誰のせい? 犯人捜しのカラクリの巻

スピードオーバーでカメラに捕まってしまった。

警察署から通知が届く。日付と場所があり、あなたに間違いないですか、と聞く。「ああ、あの日か。」現場はランカシャーとヨークシャーに跨る田舎道。

すぐに、あの日は知人に会いに行っていた日だとわかる。
実は、その知人に会うのに少し気が乗らなかった。色んな理由を付けて断ろうか、いや年末だから会っておいた方が良い、等。普段になく、決断を躊躇した。

両側をなだらかな丘に挟まれた英国のとある一本道、スピードがついつい出てしまう道。普段いつも気をつけるのだが、この日は昨夜から具合が悪かった夫の世話にも気を採られ、朝からバタバタしていた。

こういう通知を頂くと、一日中、嫌な気持ちになり、それはわたしの脳が作り出す想像のお話の世界への招待状。

目的地に行きたくない、この人に会いたくない、などと内心思っていると、脳の潜在意識というのは、行く途中で道を間違えさせたりするのだ、という。現象が潜在意識に正直に従って生み出される、という宇宙の仕組み。私のように後で、「ほら、見た事か」と事前の迷いを実証出来る、寓話を作り出すきっかけになる。

「行くか行かないかをあれだけ迷っていたのに、行ってしまったから、スピードで捕まってしまった。」「あの朝、夫が病気でなければ、もっと落ち着いて運転出来ていたはず。」「慌ただしい年末ではなく、来年にしましょうと、その知人に言い出せなかった、自分に意気地が無かったからだ。」「今回は別の場所で会いましょう。」と提案してきたあの知人のせいだ、等と思考は野生の猪のように駆け回る。

ACIM(奇跡のコース)の中では、湧き出す感情を、肯定も否定もせず、ただ静かに「観る」事がまず第一ステップ。それは、まるで親が「親」という漢字のごとく、木の上に立って、ただ見る、という行為に近い、とわたしは感じる。おサルさんではないので、別に木の上に立たなくてもよいが、イメージとしてはあっている。あるいは、戦場から、パラシュートみたいに少し浮いて距離をおき、眺めている感覚をわたしはイメージする。

誰のせいだ、と犯人を捜しをやり、仮に見つけたとすれば、その悪者は、わたしが隠し持っている、秘密の自分に対する罪悪感だとコースは教える。嘘の罪悪感。God/神から、遠く突き放されたと誤解をしているばかりに起きる、偽の罪悪感。このカラクリがわかると、一気に不快感が解けてしまうのを経験する。

そして、その木の上からその創作話は、嘘だと否定し、本来の我々の正体、God/神と取り換え決断をする。でっちあげたプロパガンダ(嘘話)を否定することは、われわれの本物の正体を肯定する事等に等しいという。本物の我々の姿は、隠しようがないので、嘘話から目を醒めせば、おのずと本物に戻るということ。この、第二ステップまでが、わたしがこの世で出来る「仕事」。後は、心配に及ばない。ただ信頼する。

10年以上True Forgiveness/真の赦しを、少しづつ練習して来たおかげで、その信頼が出来上がって来た。この10年で随分と心に平和が訪れたからだ。その経験が何よりの証拠。

スピードカメラも、警察署からの手紙も、会いに行った知人も、食べた大きなチバタブレッドサンドイッチも、具合の悪かった夫も、これを書いている私も、すべてゼロポイントの愛の境地に捧げよう。そうすると、自然と平和が心に染み渡る。

というわけで、来年一月に、Speed Awareness Courseniに参加してくる。
スピードオーバーで捕まった人は、スピードにも依るが、二つの選択を与えられる。運転免許のポイント引かれて、罰金払うか、もしくはこのコースをお金を払って受けて、ポイントはそのまま。

Forgiveness lesson/真の赦しレッスンは、わたしがここで生きていると信じている限り、終わりはない。それでいいのだ。今のわたしは、人生が何のためにあるのか、と理由がわかったから。それだけで生きる意味がわかった。

めでたし、めでたし。







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