
砂糖と罪悪感と親切心 編
クリスマス近し、街も家々もイルミネーションやデコレーションで着飾っている。絵本の世界にいるようで、遊び心に溢れていて、わたしはこの時期が好き。
プレゼントの交換をしたり、あるいは私のように、無理やり人に押し付けプレゼントをする時期。
わたしの押しつけプレゼントとは、最寄りの駅職員さん10名に、Chocolate Tiffins とChocolate Brownies、いわゆるチョコレート菓子を手作りし、一つ一つ袋に入れて、色どりのおリボンも付けてお渡しする、というもの。
これは、今年3年目の自分勝手親切心である。夫が、Manchesterまで毎日電車で仕事に行く際に、車椅子の乗り降りを手伝って下さる職員の方々に、ありがとうの気持ちをお伝えしたい。
ちなみに、うちの最寄りの電車の駅は、車椅子でなくとも、時々怖いほどプラットフォームと電車の距離が広い時がある。車椅子や乳母車の乗客者は、駅の係員さんがランプといって, 重くて長い渡り板を付けて下さってから車内に乗り込む。あれ程に丈夫な橋なら三途の川を渡るのもきっと安全だろう。
このチョコレートギフトは案外評判が良く、皆さん喜んで下さる。だから、私も調子に乗って得意顔。「お店でもやってるのかい?」なんて聞かれた日には、有頂天になって内心小躍りして喜ぶ。
二つ目は、今年初めての試み。先週、お客さんから頂いた手作りのチョコ菓子のお裾分けを、行きつけの郵便局の窓口にいらっしゃる、パキスタン人のお二人にも同じようにしておリボン付きで渡して来た。これも喜んで下さった。ハラール(イスラム教で許可された食材)だから大丈夫だろうと思った。
三つ目は、これも今年初めての試み。私が利用する近所のリサイクルセンター、いわゆる粗大ごみ処理場で、一日中外で仕事をしていらっしゃるスタッフの方々へ。先日、夫が職場から貰って来た大きな箱入チョコレートを、メッセージを足して「いつのありがとう。お疲れ様です。皆さんで食べてください。」とお渡ししてきた。外国語訛りの英語を話されるお若い女性が、普段ゲートに立ち、市民が車で持ち込む粗大ゴミ検査をされるのだが、その女性に渡すと、それはそれは喜んで下さった。ハグまでしてくれた。
と、ここまで書くと、何て親切な人なんだろうと、思うだろうか。
Not so fast. (まあまあ、ちょっと待ちなさい)
先日、瞑想中によくよく心の中を観察してみたところ、こんな事が浮かび上がった。
砂糖菓子、チョコレートは家の中にはあまり置いて置きたくないもの、と思っている。わたしは甘味の高い本国英国の菓子は殆ど食べないが、ちょっと食後甘い物が欲しくり、味見したくなる欲望に駆られる。そうなると、「砂糖は砂糖を呼ぶ」という暗黙の方程式が私にはあり、「砂糖=危険」なものなのだ。甘い物に目がない夫にも食べさせたくない。
つまり、「誘惑に負ける前に家から追放すべし」という作戦に出ているのだ。一方、その危険な食べ物を人に平気で食べさせるのか?
矛盾、罪悪感が湧く。しかし、お菓子は作ってみたい。お店屋さんごっこのように袋に入れておリボンも付けてみたい、人の喜ぶ顔が見たい、という実に自分勝手なゲームをしているわけだ。
なるほど、恐怖と罪の意識と、その誤魔しが背後にあるわけか。これは意識上でもうすうす自分で気づいてはいた。
しかし、もっと深く潜ると、その恐怖と、罪の意識、親切心、砂糖に対する悪の観念を「本当に実在するもの」として頑なに信じ込んでいるという、盲点が浮かび上がる。
ACIM(奇跡のコース)では、「ああ、そういう思い込みがあるんだな」と、ありのままを優しく自覚する、というが最初の行程。次に、すべての思い込みをGod/神に手渡す事を教えている。自分と他者に対する本当の贈り物はここなのだ。
チョコレートも、駅員さんも、郵便局職員さんも、リサイクルセンタ-の職員も、砂糖は悪だという観念も、誘惑も、罪悪感も、親切心も、独りゲームもすべて愛の炎に燃やして、God/神そのものとExchange/交換する。
その瞬間、すべての事柄がInnocent/無実になり、私も同時に無実になる。わたしの場合、食事に対する信念が非常に強いので、このように表面化する度に、ACIM True Forgiveness/真の赦しを繰り返し実践する。
こうして己のアクが表面に出て来てくれるのはありがたいことなのだと、ACIM (奇跡のコース)のKen Wapnickは言う。
次第に後ろめたい気持ちは消え、ただ童心に戻って菓子作りを心から楽しめる。キッチンに立つのが楽しい。またキッチンで好きな様にさせてくれてる夫にも感謝の気持ちが湧く。皆様の喜んで下さる笑顔も、心良く受け止め、ありがたく頂戴する。皆さんお疲れ様でございます、そしてありがとう。わたしの余計なお世話親切心を喜んで下さって。
めでたしめでたし。