メッシュワークゼミ〜問いをアップデートする人類学ゼミ〜 #1〜3
問いをアップデートする人類学ゼミ
たまたま、このツイートを見つけたのが始まり。
えいや!っと締め切り1時間前に200字の志望動機を送り、8名の中に選ばれました🙌
なぜ受けるのか
大学で寮に住んだことがきっかけで「共同生活楽しい」となり、卒業後にアオイエに住んで。一軒家型のシェアハウスでは寮とも違った関係性が生まれていて、それが面白くってコミュニティにのめり込んだ。
現在も、自分自身が3年半住む中で変化し続けていることを感じて興味深いし、一人一人の変化にも興味がある。
そうして勝手に一人で「住みながらもその場を面白がる」という立場を続けてきた3年強だったので、文化人類学という学問を知り、興味を持ったのが約2年前。
(アオイエゼミのゲストである桂大介さんが主宰しているこのコミュニティの運営に関わったことが、文化人類学の出会いのきっかけ。)
一般的な学問は、あるものの見方を身につけて、その枠組みの中で普遍的で正しそうなことを見つけてきれいにまとめる、みたいなイメージ。
対して人類学は普遍的なことよりは、そこで起きている「小さな・けれど見逃したくない出来事」に目を向けられる(そして目を向ける主体である私自身も重要な構成要素となる)学問。(だと現時点では思っている!)
私としてはめっちゃワクワクする学問です。見つけた時点で受けない選択肢はありませんでした。とうとう、人類学の社会人ゼミが立ち上がる時代になって私は本当に嬉しいです。
現時点で持っている問い
志望動機に書いた問い。シェアハウスをフィールドにするわけだけど、その下心としては「シェアハウスってめちゃくちゃ面白いし価値がある」って伝えること。
でも実際に住むのは一握り。なぜなら、その面白さには面倒臭さがつきものだから。普通友達と遊ぶ時って、その人との楽しい時間だけを共有できるけれど、日常を共有するとなるとそうもいかない。誰もがいつも気を遣えるわけじゃないし、普段人に見せていない部分もたくさん見える。そういうのが嫌って人は絶対住まない。
じゃあ住んでる人はみんな、その面倒臭さを知った上で入居してるかというと全然そうでもない。住むときの理由は、人が好きとか留学先のシェアハウスが楽しかったとか、家賃を抑えたいとか。だから住んでみて、「こんなに人との距離が近くて、こんなにも面倒くさいんだ」とみんな思うんじゃないかな。少なくとも私は、寮生活をした後でも思った。
そんな、後出しの面倒臭さをみんなどうやって引き受けているんだろう?みんなイライラするよね、いや、しないのか・・?とか、そういう疑問を持っているのだけど、この手の話は共同生活におけるネガティブな部分だから、あまり住人と話したことはなく。(話されるのは対人関係の悩み事として、リアルの問題として俎上に上がってる時。。)
でも少なくとも住み続けている人たちは、面倒臭さ<住み続けるという判断をしてるわけで。その事実って結構私にとっては感動的なわけです。笑
この仮定は、ゼミを通して「私の思い込みの域を超えていなかった。。」となりそうで、自分自身の見方の変化が楽しみです。
課題図書『フィールドワークへの挑戦』を読んで
さて、9/3から始まったゼミはすでに3回を終えており、この調子だと本当に一瞬で過ぎてしまいそう。(本来は毎回感想をnoteにまとめるというお題があるのに、すでにこの調子ですので。。)
前回は9/17。課題図書を読んで疑問点をシェアしながら、人類学の理解を深めたり実践のイメージを持ったりしました。
印象に残った部分たち
ゼミを主宰している比嘉さんが世に初めて出した文章を読むことができるのが、まずこの本の良いところ。この論文のタイトルは「生きものを屠って肉を食べる」。
私自身、大学の専攻が畜産科学科で、自分の経験と重ね合わせながら興味深く読めました。中でもこの部分は、このゼミの趣旨である「問いをアップデートする」とはどういうことなのか?が体感できたのでピックアップ。
自分も屠殺に向き合ったからこそ、ゼミのテーマである「問いをアップデートする」とは、問いを通して自分に向き合い、自分の捉えていた枠に気づくことなのかなと、実感として納得できた部分でした。
次は自分のテーマ選びに大いに参考になった部分。
私もこの方と同じように自分がどっぷり浸かってきた活動の場をフィールドとして選ぼうとしている。そのような場ではもう新鮮な目は持っていないので、「問いを持てないかも、、」と不安になっていたところだった。
けれどこの方の例によって、例えば自分の生々しい気持ち、葛藤に目を向けることでも何か新しい認識を手に入れることができるかもしれない、と希望につながった。違和感や葛藤は問いのきっかけになりそう!
他にも、
など、刺さる表現が盛り沢山の読み応えのある本です。ここまで主観全開だと、この人の世界の見方=何を良しとしているのかがよくわかって楽しい。
ゼミ語録
さて、肝心のゼミは私の予定管理能力が甘すぎて(いや9/10-11でアオイエ合宿があってそれどころじゃなかったというのが本音だけd)前日にやっと読み始めたため、寝不足で満身創痍の参加。後半(もう一つの課題図書『西太平洋の遠洋航海者』)は眠すぎて起き上がれず。。。😇
それでもあくびを噛み殺しながらメモしてたのは、ゼミ生の下の問いに対する議論。
議論の中でゼミ生から出てきた「驚きがあるうちはまだ『私たち』ではない。慣れてくると『私たち』と思える」がとても好きな言語化だった。
アオイエはシェアハウスという箱があるので明確に境界がある。だから住めば最初から「住人」として語ることが可能だけれど、それが「私たち」と同じかというとそうでもなさそう、というのがそこでの気付き。
ちなみに前回9/10での課題図書(人類学とは何か)を読む中で、「コミュニティの線引きをすること自体が本当はいない『彼ら』に対する対抗として生まれる意識なのでは?」という問いが生まれたのだけど、この中では「私たち」は外からの視点を意識した言葉だよね、とあって結構びびった。
ちまたのコミュニティ、全部これじゃね??という。。
まあ私たちを語ることに良し悪しがあるわけではないのだけど、なんのために「私たち」を意識するのか?は考えておかねば、ひょっとすると脳死で使っちゃってるかも、と気を引き締めました。(9/10は合宿で参加できなかったのでこれからアーカイブ見る、、!)
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これから半年間、ゼミを通したもやもやの言いっぱなしの場として、noteを更新していきます!メッシュワークのnoteのマガジンから他のゼミ生の文も見れるので、興味ある方はぜひに。
p.s.トップの写真はアオイエゼミのものです。9/10はゼミをさぼってたわけじゃないよ〜の図として笑
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