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本物を知れば、アートはもっと深く味わえる?

鉄道博物館で、機関車の汽笛の実演を見る機会がありました。

「ポーーーーーーーッ!!!」

低く重たい音が、館内に響き渡りました。静かだった空間が、一瞬で振動に包まれ、胸の奥にじんわりと響く感覚。空気が押し広げられるような圧力があり、床から足へと振動が伝わってきます。

小さな子どもは驚いて泣き出し、うちの2歳の息子も動きを止め、じっと耳を澄ませていました。周りの大人たちも、思わず顔を上げて機関車を見つめます。私も、「これが本物の汽笛の音か」と、息をのみました。

動画やおもちゃの効果音では到底伝わらない、響きの余韻と空気の厚み。その場にいるからこそ感じられる迫力がありました。

それ以来、機関車の出てくる絵本を読むたびに、息子が発する効果音が明らかに変わった気がします。

「シュシュシュシュ、ポッポー!!!」

前よりも迫力と臨場感が増しているのです!
本物の音を自分の中に取り込んで、再現しようとしているようです。本物を知ったことで、想像力の解像度が上がったのだと思います。

アートに置き換えても、きっと同じことが言えます。

水の絵を見たとき、それがただの青い絵の具として映るのか、それとも流れの速さや温度、波紋の広がり方まで感じ取れるのか。その違いは、水とどれだけ向き合ってきたかによって変わるのだと思います。

川のせせらぎを聞きながら石を投げた記憶、頬を濡らす雨のひんやりした感触、入浴剤が広がるお風呂の水の柔らかさ。そうした経験が積み重なるほど、描かれた水の向こうに、匂いや音、触感までも想像できるようになっていきます。

風もそうです。

そっと髪を揺らすそよ風、窓の隙間を抜ける冷たい風、木々をざわめかせる強い風。ただの空気の流れではなく、その風の温度や湿度、勢いや方向の違いを感じ取れるかどうか。それは、実際にその風を知っているかどうかで決まるのだと思います。

人との関わりもまた、似ているかもしれません。

たくさんの人と出会い、遊び、喧嘩をし、言葉を交わしながら、自分とは違う価値観や考え方に触れていく。その積み重ねが、「この人はなぜこういう言葉を選んだのか」「どういう気持ちでこの行動をしたのか」を考えるきっかけになります。

本物に触れることは、単に知識を増やすことではありません。想像の手がかりを増やし、世界の奥行きを深くすること。ただ「知る」のではなく、「感じられる」ようになること。その感覚を持てるかどうかで、世界の見え方は大きく変わります。

ふと自分のことを振り返ってみました。コロナ禍で妊娠し、在宅ワークをするようになってから、私はどれだけ本物に触れてきたのか。スマホをスクロールする時間が増え、外に出る機会が減る中で、実際に「感じる」時間はどれほどあったのか。息子の姿を見ていると、自分こそ、そろそろもっと外へ出たほうがいいのではないかと思いました。

……そうだ。私よ、外に出ろ!太陽を浴びろ!人に会えーーー!

話を戻すと、息子には、できるだけたくさんの本物に触れてほしいと思います。草の匂いをかぎ、風の温度を知り、友達と本気で遊んで、ぶつかって、仲直りしていく。YouTubeやSNSでは得られない、自分の手で感じ、自分の心で考える体験を大切にしてほしい。

そういえば、都心に住んでいた頃、おしゃれな保育園を見学したことがあります。園庭はなく、その代わりに「プロジェクターで世界のさまざまな情景を映し出すスペースがあります」と説明されました。

限られた環境の中で工夫を凝らしているのは素晴らしいことですが、画面越しに風景を見るより、泥だらけになって遊び、かけっこをして転び、友達と手をつないで走るほうが、ずっと心に残るはずです。そう思いながら、都心の生活に疑問を抱いたことを思い出しました。(都心だからといってそのような保育園ばかりではないけれど)

本物を知ることで、アートの見え方が変わる。それだけではなく、世界の捉え方や、人との向き合い方も変わっていく。

我が家では、夫と育児方針について話すとき、よく「本物に触れさせたい」という話題になります。どれだけ多くの「本物」に触れられるかは、どんな人生を生きるかに関わってくるのだと思います。

そもそも、「本物」とは何か?という問いにもつながりそうですが、それはまた改めて考えてみようと思います。


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