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つらつら

今年はM-1を見なかった。見れなかったのではなく、あえて見なかった。そして見返そうとも思わない。あまのじゃくだから、面白いとか感動したとか肯定の感想があがればあがるほど、見たくなくなる。見てしまえばきっと楽しめるし感動する。するに決まっているけど。けれど…どうして今年は、いやこれからも、M-1を見ることに否定的になってしまったのか?自分なりに解明してみる。

❶ M-1が多数の日本国民の娯楽になったことによって不自然な影響力が起きた。

❷ 漫才が高尚なもののように扱われてるような違和感。

❸ 単に飽きた。

M-1のはじまりは、漫才ブームをまた起こしてほしいという要望のもと島田紳助がたちあげたものだ。回を重ねるごとに豪華になり、一夜にして無名だった漫才師がスターになるという絵面は感動もしたし興奮もした。自分が推しているコンビが出続ける限り見届けたいという思いもあった。それはまるでギャンブルのようで楽しかった。そしてその頃はまだ自分の意志でM-1を見る見ないの選択権があった気がする(私だけか?)昨今のM-1は、日本人なら必ず見る!見なきゃならん!的なテレビの煽りがすさまじく、正直その煽りに負けて(?)見ていたような気がする。自分の意志で見ていない感が、M-1視聴が疲労するに繋がるのではないか。

最初の頃のM-1は2時間くらいだったと思う。それがいつしか3時間超えが当たり前になった。ルール変更などあったかもしれないが、それ以上にコンビの紹介やそれまでの軌跡なんかをドラマチックに流すことでどんどん長くなっていったんだと思う。漫才だけを見たいのに何を見せられてるんだろうと思うことが増えてきた。そしてそれは絶えずお笑いは高尚なもんだと植え付けるイメージがまとわり付いている…気がする(私だけ?)これは松本人志の功罪が大きいと思う。

まあただ単純に飽きたというのもある。けっこう前から飽きてたけど、なんとなく他に見るもんないし見たら見たで確かに面白いし、何よりお笑いが好きならM-1は必ず見ないとならないという掟。でも何だろう。私は90年代のDTで育ってもちろんお笑いのOSはDTで、それをなかなかアップデートできず苦しんでたけれど、ぺこぱの漫才を見てなんか今までのDTのOSを壊してくれた!っていう衝撃の余韻からまだ抜け出せてないんだろう。もうお腹いっぱい!みたいな。

とかなんとかつらつら書いたけど本当の理由は、M-1で優勝しても、もう漫才のネタなんか作らなくなりテレビに出てCMに出てお金沢山もらって街ブラでもして楽に仕事するような今までの漫才全否定の生き方をする行き先が見えてしまうのが辛いから。そんな芸人見るより、スタンダップコメディアンを見てる方がずっと“あの頃の”DTっぽいなーと思うのです。

結局、90年代DT OSから抜けきれない人…

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