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そうして私たちは金魚をプールに、

見た。
私は高校のとき実際にこの映画のように幼なじみ4人で
小学校のプールに夏休みの明け方忍び込んで、足くらいは水につけた記憶がある。
この映画と決定的に違うのは
映画の彼女たちの関係性と私の幼なじみとの関係性。
映画の彼女たちはそれぞれお互いをそこまで深く繋がっていたいと思っておらず
私のウェットな関係を持とうとする幼なじみとは違う。
それは
時代が違うからだろうか。
私は本当はそのウェットな関係が嫌いだった。
高校の進路が見事にバラバラになったとき心底
これで解放された!
と思った。
なのに彼女たちは関係を保とうとするので辟易してた。
そういう夏休み。
一人の幼なじみが提案した
プールに忍び込む
というほんのちょっとの
ここではないどこか感の体験。
私はちっとも楽しくなかった。
私の
ここではないどこかは
幼なじみから離れた場所にしかないと思ってたから。
幼なじみこそが
終わりなき『日常』だった。

だけど

あれから30年近く経って思うのは
私自身が
終わりなき日常を選んで固執してジタバタしてる張本人だったということだ。

幼なじみから離れたくて、東京へ出て、一人暮らしして、でも結局は地元に帰ってきたときに気づいた
頬にビンタされたような
つまならないのは世の中ではなく
お前だ
という本質。

それを
この映画を見て再び呼び起こされて
思春期に入ろうとしている娘がいるくせに
未だにもがいている私を
ひどくいたたまれない気持ちにさせた
本当に
痛い
映画だった。

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