デジタルネイチャーとアナクロな4次元
充分(高度)に発達した科学は魔法と見分けがつかない
アーサー・C・クラークの言葉を魔法の世紀の中で引用した落合陽一氏。
僕は彼が好きである。自分が見聞きした中では彼の考え方になるほどとなる部分も多い。
デジタルネイチャーの世界は確実に近づき、新たな当たり前が誕生する。彼のテクノロジーを用いた表現はさらに高度になり、見る人に驚きと衝撃を与えるのだろうと思う。
ただ、僕が美しさを見出す部分は落合陽一氏のそれとは異なる。僕はデジタルネイチャーの世界が近づくからこそアナクロな4次元に価値を見出す。アナクロな4次元は美しい。
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アナクロとは”時代錯誤”を意味するanachronismの略である。
4次元は文字通り4-dimension。ここでは点・線・面・立体に”時間”の軸を加えたものとする。
ただ、これだけでは情報が少ない。
他に大切な要素として”人間”と”技能・技術”が加わる。つまり
経験を重ねる中で技術に技能が積み上げられた人間の動き(所作)は時代錯誤的な要素を持っているが非常に美しい
ということ。そうすると”職人のことか”と言われるかもしれない。
けれどそうではなくて
高度な技術・技能を持っていること と それが美しいことはイコールではない。単なる手練れでもなく、どこか折り合いをつけている様子が感じられたり、完璧ではないことを自覚した上で生まれている動きが美しいというか
それは所作という表現には軽いものかもしれないけれど、軽く見えてしまう面白さがあって、精神性が感じられるような(感じたくなるような)要素があるからこそ良いと思う。それは対象が人間であることもものすごく重要で、それがもしイルカであったりチーターであったら少し僕の欲は別の方が刺激される。
技術と技能を極めていった、というよりも技術の技能がその人に馴染んでいった結果その過程・所作が芸術的な価値を持ちうるようなもの。
同じ人間という同属だからこそ、より美しさと愛おしさのようなものを感じ得る。
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そうつらつらと書いてはみたものの、少し締まりがないのは、自分が落合陽一氏の作品をみてないことがひとつあると思っていて
そういうわけなので
今週末、GYREに行ってきます。