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エモい写真とは何か

結論から言うと、人間の存在の気配を感じるが、人間そのものの存在はない、もしくは写っている人間がこちらに興味を示していないという寂しさを感じる写真です。

 人間は、高度に社会性が発達した動物です。そして、非常に頼りない状態で生まれてきて、他の人間(多くの場合は、親、母親)による保護を必要とします。なおかつ、脳神経が非常に複雑で、ただ本能を実現するだけの生き方にはならず、精神・心を個性的に形成していく特殊な動物で、そのプロセスでも他の人間との関係が必要です。
 人間はまず、母の胎内という安定した環境にいて、そこから外界に出て強い光を浴び、音や温度の変化といった、かつてない大きなストレスに晒されます。(中略)母の胎内から出て、外のノイズに晒されるという大きな変化。この出生のトラウマを経て、赤ちゃんにとっては、母・保護者のそばにいる/離れるという往復が、0と1の基本的な対立としてある、というのが精神分析の考え方です。

「センスの哲学」千葉雅也、文藝春秋、2024、P70

通常、動物は生きる上で安定を求めます。それは食料不足や異常気象といった生命を脅かす危機を避けるために必要なことですが、高度に発達した動物である人間は、これに加えて生きるという安定のために他者がいる必要があり、誰もいないと不安定な状態になる動物です。
つまり、人間にとって、何らかの意味で不安定な状態というのは、どこか「誰かがいないという寂しさ」を帯びているのです。

不安定な状態というのは、要するに外部からの刺激により自分が落ち着かない状態になっていることを指すわけですが、それと同時に人間は、安定した状態になるために「誰ががいない寂しさ」「寂しさを埋めたい」という感情を感じている。この「誰かがいる/いない」という存在と不存在のバランスが崩れた時「エモい」という感情が生まれます。バランスが取れている状態とは「人間がいる」「人間がいなくて当然」という状態を指し、バランスが崩れた時とは「いて欲しい時にいない」という状態を指しています。人間がいなくて当然だと思っている場面ではエモいという感情は生まれませんが、そこにかすかでも人間の存在を欲した時、人はエモくなるのです。

それでは、本来なら避けるべきはずの不安定をなぜエモいとして受け入れるのか。それは、安定はつまらないからです。生物として生存する上では変化のない安定が最も良いわけですが、人間は神経が高度に発達し心を持ったがゆえに、楽しさ・エンタメとして不安定を求めるのです。そしてその不安定は本当に命の危機に陥る危険性のないものが良い。だから、不安定の中でも安全性の高い「寂しさ」は、とても都合が良いのです。

風景を見た時、いわゆる「エモい」感じがするというのは、そこに誰かがいた痕跡を見つけたり、誰かといたという関係を思い出したり……けれどそこには誰もいない、「存在している/存在していない」というギャップを揺れ動いた寂しさの結果です。

何か風景を見るとする。形や色などのリズムがある。そこでは、ごくニュートラルに、非人間的に、安定と刺激の行き来が展開している。と同時に、そこに人間は、誰かわからない誰かの不在/存在をかすかに重ねてしまう。人間の気持ちに応えたりせず、ただ展開していくだけの物質世界の「無情」がある一方で、そこに、誰かがいないという寂しさを透かし見る。この「無情と寂しさ」の行き来が「エモさ」なのではないか、とも考えられるかもしれません。

「センスの哲学」千葉雅也、文藝春秋、2024、P72

具体的に考えてみましょう。
例えばあなたは次の、山頂からの雄大な景色を見た時、エモいと感じるでしょうか。

エモいと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、大多数ではないと思っています。
これは、この風景に人間がいないのが当然で、むしろ人間の存在とは別に自然そのものを崇高なものとして捉えているからです。そこには自然に対する畏怖や尊敬の念こそあれ、寂しさなど感じません。
この写真からは人間の存在を感じないし、また存在していて欲しいという感情も生まれないから、エモくないわけです。存在と不存在のバランスが取れている状態です。

逆に廃墟の写真はなぜエモいのか。
これは、人の営みがかつて存在していたという事実があり、人間の存在を強く感じさせるものが朽ちて崩壊しかかって現在人間は存在できないという寂しさを感じさせるからです。人間は(かつて)存在していた、今は存在していない(できない)という存在/不存在のバランスの崩壊が感情を揺さぶっているのです。
つまり、人工物が存在しているが、人間の存在を認めることはできない、という写真はエモくなる可能性が高いと言えます。人工物があるということは人間の営みが行われている(いた)という証拠であり、人間が存在している(いた)ことを想像させるが、実際には誰もいない……という写真は、感情が存在/不存在を行き来し、寂しいと思わせる力があります。

では、人が写っている場合はエモくならないのか、という疑問が生じるかもしれません。写真ではありませんが手短な例として、ポカリスエットのCMなどはエモいと思う人が多いでしょう。

学生を使うだけでエモいというのはひとまず置いとくとして(おそらくこれも、今学生の人にはこのCMはエモいと思われていなくて、社会人が見て「若くない」「もうこの学生のようには守ってもらえない」という寂しさから「エモい」と思っているのではないかと思っていますが)、このCMを見たときになぜエモく感じられるかといえば、カメラ目線がないからです。こっち(=私)を見ていないのです。私を見てくれる人が居ないから、私自身が不存在になり、私に興味関心を持ってくれる人がそこにいないという寂しさを感じるということです。確かに被写体としてそこに人間は存在しているけれど、その人間はあなたに興味を示してあなたを庇護してくれることはありません。断絶の寂しさがエモいのです。

写真を見てエモいなと思った時、それは人間の存在/不存在を揺さぶられた自分自身の寂しさを表しています。
そしてその人間の存在/不存在の落差こそが、作品の「エモさ」なのです。落差というのは、例えば都会(過密=人がいる可能性が高い)/田舎(過疎=人がいる可能性が低い)であったり、高層ビル(=新しい)/無人駅(=古い)であったりといった、人の存在が近く感じられるか、遠くに感じられるかといったことが影響しています。「かつてそこにいたが、今はいない」と思わせる強度とも言えます。落差の大きさが作品のボリュームと言っていいかもしれません。
それは、寂しさという不快なことを快楽に転じているとも言えます。

我々は、寂しさというストレスを楽しんでいるのです。


<参考文献>


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