選ばれる側だと思っていた
昨日は色々な出来事があった。
平穏な毎日もそれはそれで好きだが
感情の揺れ動きもまだまだ感じていたい
お年頃なのかもしれない^^;
昨日の出来事のうちのひとつに、
コラボ企画のお誘いをしたお相手との
ミーティングがあった。
これまで誘われる側、選ばれる側を
体験したくて、そちらの方が
責任も少ないような気がするしいいかな、
と思っていた(割合も高かった気がする)。
でも、その一方に染まれてしまう私は
選ぶことが出来る
決めることが出来る、をすっかり追いやり
誰かに選ばれるわたし
決めてもらうわたし
~されるわたし
の内部イメージが強くなってしまっていた。
そういう必要とされている感覚に
安心を覚える反面、見捨てられるかもしれない
恐怖も感じていたのだろう。
恐れが大きかった。
ふと、ある時、パートの面接に行く途中で
私は選ばれる側でもあるけれど
選ぶ権利があるんだ、ということを思い出した。
それから時が経って昨日、
お誘いした相手の方から
「あなたに選んでもらえるとやりたいと思う」
といった類の言葉をもらった。
その理由が、
「あなたは私でないといけない理由を
持っていて述べてくれる、よく人を見て
選んでいるように感じるから」
とのことだった。
なんだか無性に嬉しくなった。
人を選ぶとか何様?偉そうに、なんて
どっかで思っていたなぁと気付いたり
信頼を置いていることが伝わって
それを拾ってくれたことが嬉しかったんだと
気付いたり
辛いことの方が思い出されるほど
人とも自分とも誠実に関係を築こうと
重ねてきた何かしらの実りを
相手を通して感じられた瞬間だったり、した。
物事にこだわりを持って
マイルールで自分を
縛りあげてしまうこともある。
時に精神疾患と名前がつき
そのラベルに自身が振り回されて
あぁ、もっと優しくできたらな
あぁ、もっと賢かったらな
あぁ、もっと完璧主義じゃなくて
ゆるく気にしない人だったらな
と散々な自己否定をしてきた。
もっと、と思う追究心も
こうだったら、と振り返る研究肌な性質も
いや、こうだ、と、頑なに手放さないこだわりも
時に従う忠誠心も
心を守るためのフリーズもてんぱりも
輪から外れてひとりになろうとするいらん遠慮も
いちいち傷つくほどに信じたいまっさらさも
ぶつぶつ気に食わないことを引きずる
頑固親父のようなところも、
これらが付き纏うから
面白いのかもしれない。
出来事だけにがつんとスポットを当てると
一喜一憂がひどいけれど、
言葉に起こしてみるとそうでもない
短所と思っているそれらは
今すぐ除外したい程のものではないと気付く。
むしろ、大切にしたい、してきた、している
わたしのお気に入りにさえ思える。
中でも、「信頼」は
自分にとってのキーワードなのかもしれない。