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女性性と男性性の育成
この世の中には面白いことに
陰陽、ツイの世界が存在する。
これは地球において存在する
3次元の世界で、宇宙には
どうやらないらしい。
その中でも今日は
女性性と男性性について気づきを混じえて書く。
私は女性性と男性性について
このように捉えている。
女性性▶︎受容や寄り添い
男性性▶︎思考や行動
女性性▶︎自分の中の母親
男性性▶︎自分の中の父親
以前は、実際に両親を責めている感覚になって
向き合いたくなかった部分かもしれない。
両親の影響は大いに受けているとしても
あくまで、自分の中に育った性である
という理解が必要だ。
自分が苦しいを緩めて楽しい嬉しいを
倍増させながら生きていくのに
この性と向き合う必要があった。
私の中に育った母親はしっかり者、
父親は無気力(⇔犠牲的な働き者)、である。
一度はお母さんお父さんみたいになりたい
と思ったことはあるが、いつしか似ている
部分に反発を起こすようになった(反抗期)
それは、それらのせいで
自分が苦しんでいるのではないか、と
気がついたからだ。
だからと言って誰が悪い訳ではない。
生まれて育つことはひとりではできないし
家族という単位の中で揉まれて
当たり前に両親の価値観を信じている
最初の自分がいるわけだから。
誰しも通る道で、
自分だけがおかしいわけではない。
むしろ、この反発がものすごく大切で、
なぜかというと、自分として生きる
新たな価値観を創掘していくわけだから。
私の場合、反抗期らしい反抗期はなく、
今になって反発が芽生えている。
実際の母親に関しては、できないが口癖で
なんでもやってみようとしない。
反面、目立つことも好きである。
人に指摘されると避けるかのように
自分の本心に素直でなくなる。
そんな母を見ていて、少しやってみようよ、
目立つのいいじゃーん、素直になりなよ、
と思ったし、私が守るという力が
働いていたように思う。
しっかり者になることで守れたのかもしれない。
それにおそらく私は育てること、
育ちを見守ることが好きなんだと思う。
こうして、守りながら
母を育てているような感覚に
なっていたのかもしれない。
ただ、しっかり者の弊害は、期待に応える
生き方がしんどいことと、自他に厳しく
誰かを捌きながら生きることが苦しい点だ。
そのため、私は「甘える」ことを今していて
どんだけだらしない自分も
しっかりと働いていない自分も
体調が悪いと言い続ける自分も
見せさせてもらってる。
すると、この前のカウンセリングで
心理士さんにこう言われたのだ。
「母親はどんだけ嫌なことされても大丈夫よ」
母から聞くよりもなぜかグッときた。
「なんかやっちゃったら謝ればいいのよ」って。
なんか、母親ってすげぇなって、
言葉に言い表せない涙で溢れた。
その後、母に「甘えさせてね」と言えたのだ。
私は、どんな自分でも嫌われないんだ、
どんな自分でも見捨てられないんだ、という
そんな体験を感じたいようで、
それは、新しい母親の育みでもあると思う。
本当はどんな母親と共にありたいのか?
私は、どんな時も大丈夫だよって
励ます母性がいいな、と思っている。
焦らず、騒がず、大丈夫だって、
自分に甘くて良くて、人を頼りながら
優しい世界に浸りながら生きたい。
次に、父親であるが
実際の父親は朝から晩まで働いて
趣味に生きる人だと思っていた。
弱みを見せないし、自分の論理で生きていて
でも本当はとても素直で
人を頼りたい人だと思う。
責任感も強くて、私は
父に憧れていたのかもしれない。
昔は手荒で強情でぶっきらぼうで
ユニークと感じたことはなかったし
家庭が不和だったのはお前のせいだとも思った。
けれど、父なりの家庭の守り方があったのだと
今はなんだか触れられる私がいる。
そして、かなりの実力主義社会の中で
生きてきたのだなと感じた。
昨日、父は会社の安否確認システム登録で
携帯操作に躓き、私を頼ってくれた。
私は手を尽くしたつもりだったが解決せず、
所長と直々に電話をした。
その後父が言った言葉は「かっこいい」
「すげぇ」「所長を言い負かした」だった。
私は恥ずかしくなってなんだよ、と言いながら
嬉しかったのだ。
勝ち負けの世界をに置かれ、
その世界を創ってきた彼の口から出る
「言い負かす」は最高の
褒め言葉なのかもしれない、と思ったのだ。
それがじわりじわりと身に染みてきて
父なりに頑張ってきたのだなと感じたし
何より私は「父に頑張りを認められたかった」
のだと気が付いた。
大きなしこりが溶かされたような感じで、
私はどんな父親と共にありたいか?問うた。
私は、誰に認められなくてもいいから
自分の夢中になれることをコツコツやる。
が出てきた。
知らず知らずのうちに
私の中の実力主義、結果主義が育ち
自分や他人に暴力を奮っていたと思うし
それだけでは苦しかったから。
いいじゃない、夢中になって。
いいじゃない、最高で。
いいじゃない、楽しんで。
いいじゃない、思いきりやろうぜ。
誰の目も気にしないくらいに
今にときめこうぜ。現実を楽しんでいこうぜ。
そんな感じだ。
実際に育ってきた女性性と男性性、
新たな女性性と男性性、
これらの融合が、仲良しが成立した時
それは、「私」を形成していることに
スポットが当たり、これまでの軌跡に
ぶわりと感謝が溢れて止まらないのだろう。
さてもう少し。
こうして、
生きている全ての人
心に生きる全ての人に
感謝を送りながら
満ちた私で生きていこう。