最近のミニマリストが苦手な理由
私は割とミニマリスト寄りだ。
室内にマットレスしかなくて、リュック一つ分しか荷物がない……
なんてことはないが、
誰が遊びにきても「子どもがいるとは思えない」と言われるような空間の中で、
シンプルに暮らしている。
夫も年始やお盆などに家族で夫の実家に帰った後に我が家に戻ってくると
「あ〜、うちはモノが少なくて落ち着く〜」と言ってくれる。
私自身「モノが少ないと疲れにくい」、という体感もある。
ちなみに3人家族の中で一番持ち物が多いのが夫。次が息子。そして私はダントツで少ない。自分の身の回りのものだけなら小さいキャリーケースに収まる程度しか持っていない(本や絵画、季節のお飾り、食器類、楽器、息子の作品等は除く)。
さて、私がミニマリスト思考に舵を切ったきっかけになった2人の人物がいる。
一人がFOXEYオーナーの前田義子氏で、もう一人がSAMURAIを率いるクリエイティブディレクター佐藤可士和氏だ。
私は彼らの仕事術が大好きで今もこの2人を意識している。
それぞれのデビュー作も傑作だ。
前田義子氏は「強運に生きるワザ」(初版2001年 小学館)。
佐藤可士和氏は「佐藤可士和の超整理術」(初版2007年 日経BP)。
私はどちらも初版を購入し、今でもよく本棚から取り出す。どちらもベストセラーとなり、私にとってはこの2冊こそが完璧で完全な「ミニマリスト本」だと思っている。
ただし。いずれも部屋からモノを減らすことが目的の本ではない。
どちらも、部屋からも思考からも余計なモノを極力減らす、シンプルにする、厳選したモノだけで暮らす、整理整頓(大好きな言葉!)を日々徹底することを訴えているが、そうすることで「仕事の効率が上がる」「ベストパフォーマンスを出せる(運が良くなる)」ことを説いている。
ミスリンこと前田義子氏は「整理整頓、清潔、身綺麗、知的であることで常に体調が整い、気力と集中力が高まり、自分の意見を言える強さが備わる」と訴えているし、佐藤可士和氏は「まずは自分自身の持ち物や思考を日々整理整頓することで、とりあえず、という不安をどんどん断ち切ることになり、実際の仕事において、クライアントの膨大な要望の中から最も重要な事柄をピンポイントで見つけること(=デザインの着想)に直結する」と話す。
私はこの2冊の本を何度も読み返していて、これまで自分の仕事に活かしてきた。この2冊の本の中には「ミニマリスト」とか「ミニマム」という言葉は出てこないが、前田義子氏が手がけるフォクシーの洋服のシンプルさと機能性を兼ね備えたデザイン、佐藤可士和が手がけるプロダクトを見ればそれがいかにミニマムで洗練されたものか、誰もが納得するだろう。
私も前田義子氏の影響を受け、今でも原則ポケットのついた服しか買わないし、佐藤可士和の影響を受けて限りなく手ぶらに近い格好で出かけるようにしている。私にとってはこの2人こそミニマリストなのだ。
ところが。
2009年に「断捨離」(やましたひでこ マガジンハウス初版)と、2010年に大ベストセラーとなった「人生がときめく片付けの魔法」(近藤麻理恵 サンマーク出版)があり、テレビでも雑誌でも空前のお片付けブームが到来。さらに2015年以降、世の中に「ミニマリスト」が加速度的に増える。その元祖と言えるのがおそらく佐々木典士さんの「ぼくたちに、もうモノは必要ない」(初版2015年 ワニブックス)だろう。
2009年以降のミニマリストとそれ以前のミニマリストの間には大きな違いがある。それはミニマムな暮らしが手段か、目的かの違いだ。ミニマムな暮らしが目的となり、モノを持っていない人=ミニマリスト、になってしまったのだ。
「手段と目的の違い」について、私が語るまでもないが……
「手段」とは「目的」を実現するための方法で、「目的」は「目指すゴール」のこと。例えば「幸せな人生を送ってもらうための手段として子どもに中学受験を勧めているのに、勉強することや合格することが目的化し、子どもの幸せを阻害している」ケースは「手段の目的化」の代表例だろう。
今は珍しくもないミニマリストたちが提唱する「ミニマム(必要最低限)な暮らし」も、2009年以降は完全にミニマムがゴール(目的)になってしまった。
さらに最近のミニマリストは話が飛躍し過ぎている。例えば。
・ミニマリストになれば仕事も辞めて自由な生き方、働き方が実現する。
・ミニマリストになればそのライフスタイルの発信は映えるからお金になる。
そうやって無責任に憧れを煽る発信があまりにも多い。
そもそも。
お金や名声に関する不安や執着を手放せずにミニマリストと呼べるのか?
ここは違和感でしかない。
前田義子も佐藤可士和も、あらゆるモノ・コト・情報をミニマムに絞っていくのは「いかに心地よく生きるか」「いかに生産性を上げるか」「いかに仕事の成果を最大化させるか」という目的に対する手段でしかなかった。
だから「バスマットがいる・いらない」「冷蔵庫がいる・いらない」「電気代をどうやって節約するか」「その飲み会は必要か・不要か」「その人間関係は必要か・不要か」みたいな話には決してならない。
そういった瑣末なことは個人によって異なるし、どうでも良いことで、そこは論点ではない。
何のためにミニマムを目指すのか?
インフルエンサーになりたいなら違う方法もあるだろう。お金の不安をなくしたいならもっと稼げる仕事に転職すればいい。自由に生きたいならまずはSNSをやめて、人を羨ましがるのをやめたほうがずっと早い。
私は「心地よく生きたい」「生産性を上げたい」「仕事の成果を最大化したい」、と常々思っているので、そのためにはいつも整理整頓しミニマムであることが必要だと思っている。でも、整理整頓してミニマムであることはあくまで手段なので、少ないことがゴールや喜びにはならないし「オールインワンコスメでものを減らす」とか「リュック一つで海外に行く」みたいな発信には何も感じない。
もしミニマリストを目指していて「そんなにストイックにできない」とか「そこまでできない」とか「何だか宗教みたいで気持ち悪い」と感じるなら、それが目的なのか手段なのか、自分の心に聞いてみたら良いと思う。
おまけ。
「わたしの部屋にはなんにもない」(ゆるいまり著 KADOKAWA 初版 2013年)という本も私に大きな影響を与えた。これは著者のまりさんが2011年の東日本大震災で被災した際に「モノに殺される」と思った経験から「捨て変態」になったという話だ。彼女の目的は「モノに殺されない」。だから何もない部屋で暮らすしかなく、結果として超ミニマリストが爆誕したのだ。トラウマからのミニマリスト。私はあの日、都内にいたが、あの経験も確かに私のミニマリスト度を高めてくれた。