ケルン大聖堂の横、ルートヴィヒ美術館で浴びるように近現代の至宝を鑑賞する
旅に出てから、毎日、朝の出発前の時間にnoteを更新している。今朝のケルンは大ぶりの雨。アテネの乾燥した暑さに熱中症気味になった身体に、雨音が優しく響く。
昨夜はミュンスター彫刻プロジェクトをめがけてミュンスターに行く前に、フランクフルトからミュンスターまで鉄道で向かう中間地点に位置するケルンで一泊した。駅近くのホステルは清潔で雰囲気も明るく、安い。旅をしやすい時代になったなぁと、つくづく思う。
ケルンについて、荷物をほどき一呼吸おいてから、ケルン大聖堂に出かけた。
ゴシック様式の大聖堂としては、世界最大規模のケルン大聖堂。そのスケール感には、威厳とともに包み込むようなおおらかな女性性を感じた。
聖堂の中心部に、カラフルなモザイク模様のステンドグラスがあり、ずいぶんとモダンだなぁと思っていたら、なんとドイツ現代美術の巨匠、ゲルハルト・リヒターのデザインなのだとか。
聖堂内の静謐な空間で、人の死や生き方、働き方、だれかとともに過ごす時間のあり方、と、いろんなことに想いを巡らせる。旅立ちの直前の思わぬ訃報もあり、旅の間にふと時間ができると、ついつい考えすぎてしまうのだ。「あの人は、どうしているかしら?」「 活躍しているけれど、働きすぎていないかしら?」「またいつか、一緒にご飯を食べたりできるかしら?」人生が思ったよりずっと短かったってことは、いつだって起こりうるのだから。
気がすむまで聖堂で過ごしたあとは、すぐ隣にあるルートヴィヒ美術館に向かった。
日本ではあまり有名ではない美術館だが、ルートヴィヒ美術館の近現代美術コレクションはNYのMoMAと比較しても引けを取らない。常設展のエリアでは、これでもかと近現代美術の巨匠たちの作品を鑑賞できる。
ピカソ、カンディンスキー、ステラ、ハンス・アルプ、マーク・ロスコ、ゲルハルト・リヒター、ジグマール・ポルケ、マルセル・デュシャン、ウォーホル、リヒテンシュタイン、モンドリアン、ニューマンなどなど。とにかく、作家と作品数が多くて書ききれない。
キュビスムやシュルレアリスム、抽象表現主義の流れにある作品から、コンテンポラリーまで、ものすごい量で、鑑賞に3時間はかけた。
大好きなサイ・トゥオンブリーのペインティングに会えたのも嬉しい。
サイのペインティングを、「どうみても子供の落書き」と言われたら、その通りなんだけれど、筆致から伝わる彼の精神の自由さ、繊細さ、感性の豊かさには、いつも心酔してしまう。美しい。
日本人の作品では、河原温の日付絵画があった。
私はかつて、河原温をテーマに芸術学の論文を書いたので、ルートヴィヒ美術館が河原作品をコレクションしていることが、ものすごく誇らしかった。
ルートヴィヒ美術館での贅沢な鑑賞体験を通じて、「この街で育つ子供はいいな」と、美術作品の持つ教育価値について考えた。
芸術にはさまざまな価値があるが、そのひとつに「教養」としての価値がある。世界的に有名な作家や作品を鑑賞することはそのまま教養になる。そしてその教養は、他者とのコミニケーションに役立つのである。
たとえばNYのようなダイバーシティでは、だれかと仲良くなろうと会話をする際、人種や宗教など話題にしないほうがいいことも多々存在する。しかし、相手の価値観を知らずして、深い交流はままならない。そんな時に、芸術鑑賞の教養が役に立つ。「あなたはサイ・トゥオンブリー作品をどう思うか」という話題は、一歩深いレベルでのコミニケーションを可能にするのだ。
私だったら、サイの作品を好きな人には「どんなところがいいと思う?」と聞いてみて、共感を味わえれば嬉しいし、自分とは異なる視点の発見があればより興奮するだろう。嫌いという人には「なぜ嫌いなの?」と聞いて、相手の意見を深く理解しようと試みる。関心がないあるいは知らない人には、サイ作品に感じる魅力を語ってみたりもするかもしれない。
芸術作品に対しての意見の相違は問題ではない。なぜなら、芸術というのは人類が長い間かけて育み続けている高尚で身近な遊びのようなものなのだから。目の前にある芸術をどう感じ取るかは、いつだって、鑑賞者の自由なのだし、他者が作品を読み解く感性や思考のプロセスを知れば、もっと広い世界と出会える。
芸術鑑賞の体験を教養ととらえて、他者とのコミニケーションに役立てるためには、「本物を観ること」が重要だ。
ルートヴィヒ美術館には、たっぷりとその「本物」がある。だからこそ、ケルンは教養ある人と他者を深く理解する素養ある人物が育つ土壌を持っていると言えるのだ。
(おまけに素晴らしい抽象絵画の写真を! Reena Spaulingsという、アーティスト・コレクティブのプロジェクトが生み出した大きな絵画。お掃除ロボットが描いたそうです。)