パリからはじまる、gallery ayatsumugiができるまで
まずちょっと長くなりますが、私自身のキャリアの紹介も兼ねて、なぜいまこのような「固有の場所をもたない」ギャラリーとして活動を始めるに至ったかをお伝えしていきます。
都市のカルチャーに心惹かれた大学時代
大学時代は社会学を学んでいました。
専門はスターバックスが有名にした「サードプレイス」。都市の第3空間論で卒業論文を書きました。
家庭が第1空間、職場が第2空間、それ以外の居場所に相当する空間が「第3の空間」というわけです。文化の薫りのする心地よい都市空間に関心がありました。
論文の出来ばえはたいしたことなく、熱心に学んだというよりも、渋谷系カルチャーにかぶれていた学生でした。
卒業後は印刷会社に勤めるも、とっとと退職。
「20代はいろいろやってみて、一生の仕事と出会おう」と思いながら生きていたので、一通り印刷技術について知り得、小金が溜まったので、1ヶ月のパリに滞在に出かけたというわけです。
初めてのヨーロッパ。マルシェで花束や野菜を買うだけでドキドキして、楽しかったものです。
パリでは、ハイヒールを履いている時とスニーカーを履いている時では、街での扱われ方が格段に違うことには驚かされました。パリの街は、おしゃれは自分を表現するとともに、周りの人に対する敬意や気遣いのためにするもんなのだと教えてくれたのです。
芸術の都ですから、毎日のように美術館に通っていました。ルーブル、ポンピドゥー、カルナヴァレ、ピカソ美術館。
教科書に載っている《モナ・リザ》が、自分の目の前にあることに驚き、《サモトラケのニケ》の美しさに圧倒ながら、せっせと美術館に通っても、まだまだ見るものがありました。
パリでアートの仕事と出会う
そうして、刺激多きこのパリ滞在で、私はアートの仕事と出会いました。ある日の友人たちとのディナーに、友人の父親が参加したのです。
その人はキネティック・アートのアーティストとして知られるジョエル・ステインでした。同時代のアーティストらと視覚芸術探究グループ(GRAV)を共同設立し、日本でも知るひとぞ知るアーティスト。
ですが、芸術学生でもなかった私は、ジョエルがそんな立派な仕事をしているアーティストだとは、もちろん知りませんでした。
穏やかで優しいジョエルに「アートなら藤田嗣治が好き」なんて元気よく話をしていましたから、いま考えるとちょっと赤面ものです。
ディナーのあいだ中、二人の息子(ジョエルの母親違いの息子さんふたり)と、二人の日本人(私と現地の友人)のヘンテコな会話に、ニコニコ笑っていたジョエル。食事を終えると自宅の書斎に皆を招いてくれました。
エレベーターのないアパルトマンの5階がジョエルの自宅。映画に出てくるような素敵なインテリア。
小さな図録にサインをしてプレゼントをしてくれました。
書斎でお酒を楽しんだあと、「家で休むから」というジョエルと別れ、私たちはマレ地区に向かいました。
その頃、ちょうどジョエルの個展が開催されていたからです。その様子を見に行こうと、もう夜中だというのに、マレ地区のギャラリーに向かったというわけ。
ギャラリーに到着すると、閉店後ですから中は暗く、ガラス越しに作品が見えました。カラフルな球体が連なるジョエルの作品。
不思議な気分でした。ガラスの向こうの作品を覗き込みながら、私は
「こうして作品を展示して販売をする仕事があるのだな」
と、ギャラリストの仕事に関心を芽生えさせたのです。
ギャラリー勤めに挑戦
1ヶ月のパリ滞在を満喫して帰国すると、当然ながら貯金は底を尽きています。
なにかよい仕事はないものかと、求人情報誌を眺めていて目に入ってきたのが、Bunkamura galleryの求人広告でした。
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