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アーティスト発掘プロジェクト

ギャラリーヤマネ時代のもう一つの貴重な体験を挙げると、社の若手社員4名で、新人アーティストの発掘に取り組んだことでした。

新規の事業計画を策定

当時、社長は後進の育成に熱心で、あらたな事業を実施するための事業計画書を書くようにとお達しを出し、皆が経済動向に少しでもあかるくなるよう、「毎朝。日経新聞を読むように」と申し伝えていました。

当時、通信美大生だった私はアートには関心はあれど、経営を考えるところまでは視野が広くありませんでした。それでも、なけなしのおこづかいで日経新聞を購読し、毎朝眺めては(当時は本当に眺めているぐらいの状態でした)会社に向かい、一生懸命に書き方のわからない事業計画書を書きました。今思い出すと赤面ものの、稚拙な事業計画だったように思います。というか、たしか資金繰りの計画をしていなかったと思うので、単なる企画書だったかもしれません。

私を含む当時の社の若手4名は、それぞれに頭をひねって事業計画書を提出しました。それらの共通点は、「現代アートを扱う」ということ。当時はプライマリーギャラリーが存在感を高めてきた時期であり、従来幅をきかせていたセカンダリーギャラリーの仕事がこき下ろされるような世相であったことと、「これからは現代アート」という潮流があったからでしょう。いまから15年ほど前のことです。

若手アーティストのリサーチ開始

社の若手が推進する新しい事業として、現代アートをプライマリーで取り扱うことになりました。つまりは、若手アーティストの展覧会を開催することになったのです。

社の若手チーム4名は、それぞれ昼休みや週末の時間も使いながら、社を挙げて応援したいと思えるアーティストと出会うためのリサーチをはじめました。

大学の卒展に行き、当時から村上隆が熱心に開催していた「GEISAI」に行き、銀座の貸画廊に行きというわけです。

いまは美大の卒展は青田買い祭りで、卒業時がそのアーティストの最盛期になってしまうほど、学生時代から作品が売れて、マーケットで値が釣り上げられ、3年後にはあきられるような状況が起きています。

ですが、15年ほど前はもっとのんびりとしたものでした。

若手発掘は難航。今とは違う「可能性」の考え方

当時の卒展や貸画廊での展覧会を巡っていて感じたことは、作品を制作している本人が、「アーティストとして身を立てる」ことに本気でないということ。

作品の質もそこそこならば、卒展や展覧会でチャンスをつかもうという気概がありませんでした。なぜならば、作品をより知るために話をしようにもアーティスト本人が不在。名刺1つ置いていてくれるならまだ連絡の取りようがあるものの、連絡先も不明な状況が当たり前だったからです。

SNSもない時代。どうすればアーティストとして活躍をしていけるのか、ノウハウも共有されていませんし、世間的に「アーティストは食えない」と、だれもが思っている時代でした。可能性を信じられないということが、本人たちのやる気を削いでいたのでしょう。機会に背を向け、拗ねたような態度でいることが蔓延していました。

すると、デフレスパイラルのように、よい方と縁を持ちたいと思うギャラリー側も、選定に難航します。首都圏で開催されていた美大の卒展全てを巡っても、その年に「話を聞いてみたいな」と思えたアーティストは一人だけといった状況でした。

発掘に難航はしていたものの、それでも何名かのアーティストに声をかけさせていただき、エンゲージメントがうまれた数名で展覧会をつくりました。

この時、チャンスを掴んだアーティストの一人は、いまも関連ギャラリーでの取り扱いが続いています。

銀座の貸画廊で展覧会を開いていた、当時は美大の助手として仕事をしていた方です。展覧会場で作品について説明をしてもらい、後日大学に電話をかけて呼び出していただき、打ち合わせをセッティングさせていただいたことを、今でもくっきりと覚えています。彼女は始終落ち着いていて、覚悟が決まっていました。その人柄を映して、展覧会開催時には、多くの友人や恩師に囲まれていたのが微笑ましかったものです。

その時々でやれることをきちんとやり、派手さはなくとも、着実に人との信頼関係を築いていける人に、ちゃんと道が開けるのだと、いまも彼女の、健やかで気負いのない姿勢を思い出させてもらっています。



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