『TTTTT』企画にあたって
戯曲は演出家次第で、無限の変容を遂げる。
それは今回の『TTTTT』稽古期間中に、身をもって実感した。
僕は現在、意図的に作・演出を放棄している。
理由は簡単だ。
なるべく多様な上演が生まれるように、解釈がひととおりにならないように、細心の注意をはらいながら普段、劇作家の僕は戯曲を執筆している。
にも関わらず、作・演出を続けていると、その時に自分が主宰しているカンパニーでの上演がある種の「正解」みたいに、何故か受け止められてしまう。
そういう風潮があることは否めない。
本当に皆、自分が自分の戯曲のいちばんの善き理解者だと劇作家は思っているのだろうか?
少なくとも若手では、それこそ戯曲賞を受賞するというようなわかりやすいきっかけでもないかぎり、他の演出家による上演はなかなか行われないのが現状だ。
『止まらない子供たちが轢かれてゆく』がたまたま賞を得たとき、僕の作・演出の他に、四名の演出家の異なる上演を観る機会に恵まれ、その体験がすこぶる刺激的で、その面白さをこちらから仕掛けることが出来ないか、という思いが日に日に強くなっていった。
下田彦太さんは『人柱が炎上』を、僕が演出する時には全く注意を払わないリアリティに重きを置いて思考しようとしている。
橋本清さんは『景観の邪魔』を、元々のシーンの順番からがらりと変え、新しい文脈を生み、邪悪な言葉を浄化し、激しくエモい作品に仕上げた。
鳥山フキさんは『非公式な恋人』に、「噴飯もの」という言葉の相応しい表現を勝手に加え、ただでさえ挑発的な物語に過剰な煽りを含ませることに成功した(いい意味で、途中で帰るお客さんが出てくればなお良い)。
この上演はいわゆる「正解」ではなく、あくまでも「過程」として受け止めて欲しい。
誰もが『ハムレット』や『かもめ』の異なる上演を楽しんでいるけれども、そのすべてが「正解」ではない。
まだ生きている国内の、若手の、名も無き劇作家の生まれたばかりの新作が、様々な演出家の手に渡って全く違う色を帯びることが、当たり前の世界を夢想したい。
『TTTTT』はその大きな一歩となる公演になるだろう。
余談だが、舞台に興味のない人に「何故脚本を書きたいのにテレビや映画の世界を目指さないの?」と本当に不思議そうに問いかけられることが度々ある。
答えかたは色々あるが、現時点でのいちばんの理由はいま述べたようなことだ。
『ハムレット』や『かもめ』のように、国内の作品なら『紙風船』のように、たくさんの演出家の上演が日々行われている、その世界に化けて出るのではなく、生きながらにして目の当たりにするにはどうすればいいのか。
愚直に考えてみた。
綾門優季