音楽の存在とは
ツイッターで「自分にとっての音楽」についての人工内耳装用者の方のつぶやきを拝見して
感じたことを書いてみようと思いました。
近年、人工内耳装用児の音楽聴取の研究などが学会で発表されるようになってきています。
先日の記事でも書いた日本コミュニケーション障害学会学術講演会でも
「人工内耳装用児の音楽聴取」についてご発表されている先生がいらっしゃいました。
今回の発表ではありませんが、例として下記のような研究が行われています。
〇大金・城間・小渕(2015) 人工内耳装用者と補聴器装用者の音楽知覚の比較検討Audiology Japan,58,60-68 https://www.jstage.jst.go.jp/article/audiology/58/1/58_60/_pdf/-char/ja
こういった研究では、装用者がどのくらい正確に、対象となる楽曲のリズムやメロディなどを聴取できているかということに焦点が当てられているように思います。
それは「きく」ということを考えるうえで一つの重要な要素ではあると思います。
けれど、「正確にききとれる」ことは、「音楽を楽しめる」ということと直結するのでしょうか?
結論や考察として、「識別する力、知覚する力はこんな感じで、そこにはこういった要因があると考えられる」と結ばれるものが多い気がします。
楽曲における音の認知や識別の様態を明らかにすることは、とても大切なことであるのは間違いありません。
装用者は、このように楽曲を認知する「傾向」があるようだということを知っていると、個別のアプローチをする際に一つの指標として役立ちます。
けれど、私たちはその先にも踏み込んで、装用者の方と一緒に考えていかなくてはいけないのではないかな、とも思うのです。
それは、「音楽とは、その人にとってどのような存在なのか?」ということです。
補聴器機を装用してもほとんど歌詞や旋律を聞き取れない方もたくさんいらっしゃいますが、その中にも音楽を楽しんでいる方がいます。
「このアーティストが好き」「コンサートに行くのが楽しみ」
聴覚障害であっても、目を輝かせてそんな話をしてくれる人にたくさん出会ってきました。ダンスが大好きで夢を語ってくれる子もいます。
また、中途失聴で人工内耳を装用した方で、また音楽を楽しめるようになったという方もいれば、
以前のきこえではないため、同じように音楽がきこえない、楽しめなくなってしまったと肩を落とされる方もあります。
学校の音楽科と趣味の音楽も違いますよね。
教科の音楽で「勉強する」楽曲と、自分が「好きな」楽曲は必ずしも一致しないと思います。
「好み」という要素も大いに影響すると私は考えています。
年齢によっても変わってくると思います。
例えば、小学校低学年では、「みんなで歌う」ということが楽しいかもしれない。
けれど、高学年になってくると「ハーモニーがそろう」ということが楽しいかもしれない。
この歌詞が好きなんだ、ということだって勿論あるでしょう。
何を楽しいと感じるかは変化し続けるものだと思うので、低学年のときに楽しめてたから、この子は音楽が好きだ!と考えられるものではなく、数年後、成長した時にはどうなるだろうか、と常に考えることって大切なのではないでしょうか。
これは、音楽に限らず、言語指導や生活指導の場面でも同様だと思います。
人間は変化し続ける存在なんですよね。
私は、そのことを歓迎したいです。
こうやって考えると、「楽曲を正確に聴取できる」はずだから、少しでも正確にきけるように訓練しよう!とかではなくて、「その人にとって」の「音楽の価値」がどこにあるのかを一緒に模索して目標を定め、それに適したプログラムを実施していくことを大切にしたいなと改めて思いました。
「音を楽しむ」ことを音楽というのなら、楽しむという心的な側面を尊重して、装用者にとっての「存在の価値づけ」について定期的に話し合って、少しでも納得できる方向に舵をとれるようにしていきたいと思うのです。