震災

あの日、私は

何が起きているのかも知らず

夜の仕事へ向かい駅前に並ぶ人を見て

あー浜スタで、イベントなんだなと思い

エレベーターに乗って

3階と4階の中間で閉じ込められて

事態を悟った。

そして、それから1ヶ月程過ぎた頃に

勤め先を辞め

有り金全てと、友人への物資を

単車に詰め込み仙台へ向かった。

何かあったら助けると

口約束をしたネットの仲間の元へ。

当時、付き合っていた子には

申し訳なく思う。

謝罪では済まされない事かも知れない。

それでも、仲間を見捨てることも

約束を破る事も

私の頭の中からは無くなっていた。


現地に入り。

泊まりつづけるだけの余裕もなかった。

単車とコンビニのネットフェンスにブルーシートを掛けて眠ろうとしていたら

現地の方だろう。

出立から、ボランティアに来た人だと分かったらしい

ブランケットをくれた。

寝る前に、持ってきた小さなガスボンベで暖を取るよりも、遥かに温かく、心が揺さぶられた。

そして、更に、あろうことか

こんな事態で無ければ家に来てと言うのだけれど…

と。言ってくれた。

此処の人達は諦めてない。

前を向うとしているんだと。

そう感じた。

ボランティア先では、2人で一つの作業をこなす風景が多かった。

私は、それを、なるべく、一人でこなせるように、無い知恵を絞って、一生懸命、土を出した。

結果、自衛隊に居たのかとか、そのような訓練を受けた事があるのかとか、言われる始末w


水につかった足を、自宅の縁台に上げられずに、亡くなった方のパートナーである、おばあちゃんともお話をした。

自然災害だからね。仕方ないよね。

それは、決して、決して、大切なパートナーを失った失意から来る、諦めではなく、前だけを見据え、そして、その短時間で、大切なパートナーの死を、真正面から受け止め、乗り越えようとする決意の言葉だった。

泊まる場所が無いなら、うちに来いと、現地の同い年のボランティア活動をする大学生の家で、何日か寝泊まりもさせてもらった。

最後は、喧嘩別れになってしまったが、今でも、名前も、はっきり覚えている。
とても大切な友人。戦友。
寒い夜を、共にし、今は、もう連絡も取れないけれど、連絡先も消さずに、残っている心友だ。


そんな中、日本中が、祭りを、花火大会を中止にしたんだ。

悔しかった。

哀しかった。

そうじゃない。
今だからこそ、いつも以上に美しい
日本の花火を
盛大に打ち上げて
暗闇を切り裂いて欲しかった。


現地では、花火を上げる計画が立ち上がっていた。
行き過ぎた気遣いは、わたしには、心遣いとは、思えなかった。
でも、最大で最善の心遣いであったことも、また、理解できた。

農家さんは、この先、何年、作物が作れないかと頭を抱えていた。

新築に防砂林の松が、根ごと、幹ごと貫通して

ニュースで見た景色と、全く同じ光景が

今でも忘れられない。

ひっくり返ったまま、田んぼに転がる車も

内地から、見えるはずの無い海が見えた光景も

ぐしゃぐしゃの道も

そして、記念撮影をする人間も

ボランティア活動ではなく

散策をするかのように車で走り回っている若者も

地元の大災害なのに動かない老人と

それを動かしたい地元の老人も

その全てが

10年も前の事なのに

こんなにも鮮明に

こんなにも近く感じるのは

何故なんだろうか。

人の温もりも

人の冷たさも

相反する二つの心を

同時に、連日、この身体で心で

常にフル稼働で感じた日は。

この先も、一生、色褪せる事なく

私の頭の中で

心の中で

再生され続けるんだなと。

再認識をしました。

そして、敢えて、言おう。

頑張れ!!!!

そして、この節目に

無念のうちに亡くなった方に

生き残った方に

大きな花火をお送りしたい。

そして、あの当時、救助やボランティアに尽力された方へ、改めて、感謝を込めて…


この記事を、締めくくりたいと思います。

令和3年3月



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