情は人の為ならずといえども、見返りがなくては続かない
困っている人を助ける、
例えば、声をかけてきた見知らぬ人の道案内をしたり、
同僚を仕事を引き受けたり、
気が進まない飲み会に行ったり、
きっといつかその得は、巡って自分に返ってくるから、労力を一方的に注いでも「仕方ない」と、いい人になりきる。
しかし、恩は仇で返ってきたり、自分の労力が届いていなかったりする。
情は人の為ならず、巡って返ってくると思うから、優しく出来たり、過剰に注いだ優しさへの疲労を仕方ないと諦めることが出来る部分もある。
そんな損得勘定がある時点で良くないと言えばそれまでだが、
そんな損得勘定があるから優しくいることが出来るのも事実で、
優しさは無限に与え続けることが出来るものではない。
……………
彼女の結婚式前日は北見への出張で、土曜の始発の飛行機に乗らなければ東京での挙式に間に合わない。10時半からの挙式参加のために朝4時半に起きて行く。
当日は1人で来る子の案内も頼まれたから、身を削る思いだったが、友達だと思っていたから行く。
特にお礼の連絡や車代などの配慮はなくとも、私もそれを求めていなかったし、何より、ただお祝いしたかったから好機と受け止めた。
しかし、優しさを注ぐ代償は中々分かってもらえない。
その後も、彼女の子どものお世話のお願いや、食事の手伝いなど、東京に行くたびに業務が課せられた。
しかし、友達だし、彼女に会うためには子どものお世話はやむなしとも思ったから、日野市まで行った。
友達だから好意としても、一方的に注ぐ優しさに、私自身が疲弊してしまう。
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それでも年に数回の面会も、誕生日祝も、20年以上こなしてきた。
しかし、彼女は私が結婚式を挙げる噂を耳にするなり、誘う前から、
「行けない。」
と連絡をするのだった。
行ってあげたから来てもらうのは当たり前とまでは思っていないが、誘う前から拒絶されるほど嫌われる何かもしていない。
何かをしたとすれば、彼女の願う場所で、希望通りのお世話をお子さんに施したくらいだろう。
もっとも、彼女の結婚式や子どものお世話は、見返りを求めてやったわけではない。
しかし、見返りがあるから人間関係は続く。
お断りLINEの最後にある、
「別途祝いたいから住所を教えて」
「電報のために式場教えて」
「成功を祈る」
の言葉にどっと疲れる。絶対に行かない意欲を剥き出しにする人間に、祝う能力はあるのだろうか。
これまで注いだの労力の分、疲労が溜まり、人の本心の恐ろしさに幻滅する。
………………
小学校高学年の子どものお世話という信用生のない理由で欠席する人に、人の門出を「祝う」思いやりや能力はないだろう。
まるで就活の不合格通知のようなお祈りLINEに好感を持ってもらえると考えている彼女の想像力の欠缺さを疑わずにはいられない。
純粋にやっているのなら、社会から離れて家庭の中だけで生きた結果が招いた、浅はかな想定であるし、嫌がらせ目的であれば、そもそもの人格に問題がある。
いずれにしても、きっと約20年以上続けてきた配慮や労力は、彼女には当たり前となっていたのだろう。または届いていなかったのだろう。
………………
優しさはいつか自分に返ってくるとは、限らない。それでも人は他人からの優しさが欲しいから、返ってくると呪いをかけるために、流通させた希望が「情は人の為ならず」なのではないか。
生活の変化によって、これまで親しくしてきた人達の本音がよく見える。
例えいつか優しさが私に返ってくるとしても、これ以上注げる優しさはなくて、見切るだけの人もいる。
せめて、当日はあなたの存在を消したい。
準備していたように行かない連絡を堂々としてくる人からの電報は、辞退したい。
巡らぬ優しさに期待や絶望をするよりも、
ただお祝いしたいとの思いで来てくれる人だけで、私には充分。
「情は人の為ならず」だからと言っても、与え続けることは私には出来ない。