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同じ景色が日によって違う〜棘のないバラ

同じ睡蓮を見て描いたのだろう。
にもかかわらず、ある時は緑で、ある時は白になり、ある時は透明で、またある時は真っ赤になる。ある時は、ぼんやりしており、ある時は輪郭がはっきりしている。
もちろん、折々の美しさがあることも理由の一つだろう。しかし、そればかりではないだろうと思う。同じ景色から放たれる熱が異なるのだから。きっと描いた人の心が今日と明日で違うのではないか。
……………
日によって物事への感じ方が変わる思いはよく分かる。
例えば、noteでマガジン登録をしてもらった時に、「嬉しい」と舞い上がる時と、「恐縮」と思う時がある。
無用な雑談をされた時に、「楽しい」と感じる時と、「うるさい」と思う時がある。
その時の自分の気の持ちようで、同じ出来事への評価が変わるのだ。
しかし、風景が変わるということは、私にはない。春も夏も秋も冬も、同じ景色は所詮、いつも同じにしか見えない。そんな鈍感な私には、「モネはなんて豊かのだろう。」と感じる。

ものを見た結果、心に溢れたものを描くことで、自分を知ることにもなる。その描く才能で自分を知って生きていくことは、どんなにか崇高なものだろうか。
もちろん、天才ゆえの誰も知り得ない筈の苦悩も努力もあっただろう。評論家への批判はきっとそんな思いの一つでもあったかと思う。
しかし、自分を深く知る才能を持ち合わせ、白血病や戦争等あらゆる苦しみの中でも、描き続ける情熱に対し深い尊敬の念を抱くとともに、羨ましくてならない。
…………
太陽光を受けたからか、薄いグレーの木の幹は、ある日は内から蛍光ピンクを放つ。それは、まるで、命の色の様に見える。
モネが描いた木は、モネが見たから生きているのだと感じた。そして命の色はピンク。だから、思わず触れたくなってしまう。この絵の木は、きっと温かいだろう。
私の心は、絵の景色の中に入り込んでしまった。
……………
花屋に並ぶ薔薇の花を見た時、私は真っ先に棘に目が行った。この薔薇を描くとすれば、私なら棘をアピールして、「棘があるから、薔薇って分かるでしょ?」と主張するだろう。
しかし、モネの薔薇には棘がない。だが、その絵の中の赤は、間違えなく薔薇であった。しっかりと着色され、緑の中で生き生きと存在感を放つ命は、誰もが美しいと感じる薔薇でしかなかった。
私もこの薔薇の庭に行きたいと思ってしまう、生命力溢れる場所であった。
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毎日、同じ景色を見ていても、今日は辛い景色でも、明日は美しい場所になっているかもしれない。
今は赤い池が、次には透明になっているかもしれない。
だから、描くことが出来る自分の周りとは、もう一度、向き合ってみよう。
きっと次は違う景色を見ることが出来るから。

美術館を出ると、来た時には、「濁っている」と感じた池を「涼しい」と感じた。いつの間にか心の中の棘が丸くなって、色彩だけが赤く灯った様であった。いつか聞いたモネの言葉を思い出す。「全て変千万化する。石でさえも。」。
同じ景色が、明日にはきっと今とは違う景色になっているはずだからとの希望を抱きながら、美術館を後にした。
………………
「私にとってモチーフそのものは、もはやあまり重要ではありません。私が表現しようとしているのは、私とモチーフの間で展開されるものなのです」

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あやとりりい
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