互いが積み上げたセンスの違いを認め合うことが、これからの「センスがいい」になりますように。
わざわざの平田さんがcakesの連載で3回に渡ってセンスについて言及している。センスは先天的なもの? 後天的に身につけられるの?
前回は、後天的にセンスは積み上げていくものとして、AさんとBさんのファッションを例にセンスが培われる過程をかなり単純化して説明している。
平田さんの考えをまとめると、
日々影響を受けるもの(要は、インプット。本、人との会話、リサーチ、買ったもの、出かけた場所など)から私たちは「何か」を抽出している。その結晶がセンスの正体ではないか?
似たようなナチュラルテイストなファッションが好きな二人の女性。彼女たちは、同じものが好きでもそのアプローチ方法が違うという指摘。
Aさんはインスタでファッションの情報を得て、メルカリで安く探して買う。(ショップに足を運んで実際に見たり触れたり、試着はしない)
一方のBさんは気に入った服があるとブランドのコンセプトを調べ、その店に通って試着して買う。
この二人のアプローチの積み重ねがセンスを左右するという内容なのだけれど、単純化されているがゆえに、少々乱暴ではある(Aさんがかわいそうな描かれ方をしていて思わず、悲しくなる。そしてバイアスがかかっているようでちょっと悔しい)。
純粋に見た目が洗練されているという意味でのファッションセンスのよさは、このAさん、Bさんの例えを借りると、Bさんの方がファッションが洗練されているとは決していえない。というのが私の考え。
着こなしのセンスのよさは、ブランドのコンセプトやデザイナーの考え、その洋服が生まれる背景(素材や縫製の工程)を知ることも助けにはなるが、それだけでは着こなしのセンスは身につかない。現にAさんタイプでも素敵なファッションセンスの女性はいる。そしていかにもBさんそのものという女性の着こなしのセンスがいいかと言えば、それはまた別の話。
要は、自分は何に賛同するのか? どういうものを心地いいと感じるか。どういうものを身につける自分でありたいか? そうした道標を探すときにBさんのようは方法論は有効だと思う。そして「買い物は投票」といわれるように、そのものを支持するという意思表明。私もそう思いながら、一つ一つのモノに思いを込めながら選んで、買っているつもり。
いろんなものごとを見聞きして知るということはセンスを培う上で絶対的に必要なもの。でもその積み重ねだけではセンスを培うには、何かが足りないと感じる。それは、きっと何かを知ったり、触れたり、それに対して違和感を感じたときに、あれ?私はどう思っているんだろう? どう感じているんだろう? その感覚に身を浸して感じて、そこから浮かび上がることをすくいあげることじゃないかと思う。そのすくい上げた「何か」にいい・悪いとジャッジしてラベルを貼らずに、そのまま大切にポケットに入れて、また日々を送る。そのうちにその「何か」が熟成されて、ぽっと芽を出す。それが小さな道標になっていく。自分にはなんだか判別できない「何か」をある一定の長さ、抱えながら生きるその時間にも意味があると思いたい。何かを知って、どう感じるは人によって全然違っていて、その経験を経てどう行動したり、どう考えたり。それがみんな少しずつ違っていって、個人個人を築いていくような気がする。お互いが培ってきた背景にも思いを馳せて、「あなたのセンスって素敵ね」って互いのセンスの違いを認められる世界になったら地球は心地いいと思う。「センスいいね」という言葉が、自分に対してはあまり使わない、人に対していう言葉だからこそ、互いの積み上げてきたセンスに思いやりを持たないと、ギスギスしたモノになってしまうと思うから。Aさんも、Bさんも、素敵だよネ!
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