「子ども(私)からみた母親」
(※ ←この印はフラッシュバックにご注意下さい。)
こんばんは!寒くなりましたね!11月は児童虐待防止推進月間。
そして2021年12月3日(金)から映画「189」が全国公開されます!
本日、これからスタッフとして活動していく20代の方と大阪にて開催された「オレンジリボンフェスタ」に参加してきました。
ご家族で来られている方も沢山いて、楽しく写真撮影をしている親子の姿に思わず「かわいい」と笑ってしまいました。
本日、ご挨拶させて頂きました関係者の皆様、ありがとうございました。今回、子育て支援としてサポートをされている民間の方がほとんどだったのかな?という印象です。
数名の関係者の方と名刺交換をさせて頂きました。ありがとうございます。
名刺交換をする中で、私はこう思った。
そうですよね…。
「虐待」
このたった二文字の漢字。抵抗を感じられますよね…。この虐待という二文字の中には、虐待数の数だけ、深い意味が込められていると私は思います。
漢字だけみると、堅苦しく…重たく…世間からは孤立している文字に思われるかもしれません。中には子どもの前でその二文字を見せたくない!と思われている大人も少なくはないかと…。
しかし、共催「認定NPO法人 児童虐待防止全国ネットワーク」
ここにも「虐待」とう二文字が記載されています。
…私には子どもはいません。
よく耳にします。「育ててみなさい!どれだけ子どもを育てるのが大変か!」「ストレスが溜まって叩きたくもなる!」「可愛いよ?でも24時間ずっと可愛いわけじゃない…疲れる時だってある…」「子どもを生んでから自分の時間がとれなくてお洒落も出来なくなった…」
もちろん、「子どもが可愛くてしかたない!」「この子がいるから、私がいる」「子どもも旦那も大好き」「私たちは幸せだよ」という声も聴いたことはあります。
あれから何年経ったのか…。
このお話はすべての関係者様に是非読んで頂きたい。
※当事者の方は、フラッシュバックにご注意下さいね。ごめんなさい。
私もかつては「子ども」だった。
私には兄が一人いる。
母は私にこういう話をしたことがある。
「どうしても女の子がほしくてお地蔵さんに手を合わせに行った。お兄ちゃんも一緒に並んで、どうぞ女の子ができますように…って頼んだ。」
「お父さんにどうしても女の子がほしい。もう一人ほしい。頼み込んで生まれたのが、あんた。」
しかし…高齢出産というのもあってか、母子手帳に「ハンコ」を押された。
父方の祖母や親戚から、「高齢出産なんてやめ!」「恥だ!」。そう言われたらしい。
これを聴いたのは私はまだ10歳にもなっていなかった頃だ。
私が小学生になる前は、母の姉。私からすると伯母。小さな小さな家に伯母も一緒に住んでいた。
「結婚して、この家から出て行く」
そう伯母から言われた時、私は「大好きな人が出て行く!」それと同時に「私を守ってくれていた人が出て行く!」伯父になる人に「とられた!」と思ったし、最初は伯父の存在を受け入れられなかった。
「私を守ってくれたいた人」
小さな小さな家の中で、父も母も私に手をあげた。正直、痛かったというよりも怖かった。兄は私が生まれる前、とある飲食店で大勢いる中で父の張り手を受けたらしい。それはそれは、みんなが固まるくらい大きな音を立て、一瞬にして兄の感情というのを抑圧したのだと思う。(これは母から聴いた話。)
兄は…親の暴力に荷担するようになった。
「女の子なんだから顔は殴ったらいかん!」伯母はそう言ってくれた。殴られて泣いている私を抱きしめてくれた。
今でも覚えている。伯母が家を出て行った日。私は外でずっと伯母の帰りを待っていた。
でも、いくら待っても…探しに行っても…伯母の姿は見つからない。
夜になっても帰ってこない。私はようやく伯母が帰ってこないことを受け入れた。大切な人が居なくなる…この瞬間の感情…。
後から聴かされたのだが、伯母はずっと「この家からはやく出て行きたい!暴力なんか見てられん!」そう言っていたらしい。
私には「お母さん」と「ママ」2人の存在がいた。子どもがいない伯母のことを母親から「ママ」と呼ぶように言われた。「ママ」は「ママ」と呼ばれることが嬉しくて、私を愛してくれた。大切にしてくれた。守ってくれた。
「ママ」が居なくなった家は・・・地獄だった。
誰も守ってくれない。
兄とおもちゃの取り合いで喧嘩したら、母が台所から包丁を握りしめて「うるさい!お父さんが起きてくるでしょ!」と怒鳴りつける。兄はすぐに静かになる。妹である私はワガママだったかもしれない。
母親から怒鳴られることに違和感があった。
ほしいものを欲しいって言って何が悪いの?なんで?
子どもあるある。「なんで?」。その言葉が母親にとっては鬱陶しいものだったのだと思う。
学校のない土日は昼の12時まで物音を立てては駄目だった。父は夜の店を経営していた。そして、アルコールを呑んで朝方帰ってくる。昼まで寝ている父を起こしてはいけない。だから、静かに過ごす。会話もあまり記憶にない。テレビが付いていた記憶もない。(後から母親に聞かされたのは、15時まで静かに!ということだ。)
12時までに物音をたてると、父が降りてきて、理由も聞かずに私を叩いたり、殴ったりもした。怖さで震えが止まらなかった。母も兄も助けてくれない。母も一緒になって私を叩くことがあった。ものさしを持ってきて私を叩くこともあった。
ただ4畳半の部屋に、母と兄…私。
12時(15時)になる頃、2階から父が起きる音がする。
それと同時に母は、「お味噌汁と、卵焼きと…」とおかずを数え出す。父は10種類以上のおかずがテーブルに並んでいないと母を叱る。子どもながらもその光景はものすごく変だった。
10種類真剣に「1,2,3,4,5,6,7,8,9,10。うん、10種類以上…はぁ」最後には必ずため息をつく。
「どうしてそんなにたくさんいるん?」
そう母に尋ねたこともある。母は「お父さんはおばあちゃんの家で美味しいものを食べたことがなかったから。お父さんが働いたお金だから文句言わない!」と軽く叱られた。
父にはそれだけの食事を作るのに、私たち兄妹には2種類くらいだった。
もの凄く質素で、色も父とは違う。父親が残す食事を私たちが食べる。父親は1割か2割くらい残す癖がある。
今だから解る。
父も母も虐待児だったのだと。虐待を受けていたことに気付くことなく、結婚し、子どもを作った。そして、私たちが兄妹が生まれた。そして、家族になった。
テープに音声として記録が残っていた。
絵本を読んでくれる母の声。母親としての声。でもね…お母さん…。
「ガチャッ」
機嫌が悪くなる直前に録音を止める。
優しい母親の声のあと、父の声で音声がとぎれていた…。
二度引っ越しをして、大人になってから母と私の口論になって、その音声テープは母親の手でぐちゃぐちゃにされた。もうあの頃の優しい母親の声を聴けることはない。
父は私が成人になるまで、ものすごく亭主関白だった。
育児は母親がするもの。子どもの成績が悪いのは母親のせい。自分は働いているのだから美味しい食事を用意するのは妻として当たり前。近所の子どもの声がうるさいのも母親のせい。
・・・「大丈夫?」
玄関で泣く母親に何度かそう声をかけた記憶がある。そう声をかける娘の存在は母親からしてどう見えていたのか分からない。
けど、
「あんたなんか生まなければよかった!」
その言葉は何度も何度も何度も、脳裏に焼き付くまで呪文のように言われた言葉。
「あんたなんか死ねばいいのに!生むつもりなんてなかった!みんなからあんたを堕ろせって言われた!あんたは悪魔の子だ!」
「あんたはそこら辺で拾った子ども…私も自分の母親からずっとそう言われてきた!あんたは橋の下で拾った、自分は生んでない!ってそう私も親から言われた!」
…お母さん?私はそう言われてなんて答えたら正解だったのかな?
今でも答えは見つからない。
私が何かを話そうとすると、ティッシュの箱やリモコンがとんでくる。
母は時々?ヒステリーをおこす。
裸足で家を飛び出し、線路に向かって走っていく姿を何度も何度も何度も見た。
その度に「お母さんが死んじゃう!」って兄と2人で母の背中を追いかけた。
時には私の手首を引っ張って「一緒に死のう?」「一緒に死んだら、もう哀しむこともない!あんたも嫌なことをされなくてすむ!ほら!一緒にお母さんと死のう?」ってもの凄い勢いで、泣きながら母は私にそう言った。
「やだやだやだやだ!!!!!」
泣きながら必死で「死にたくない!」って叫んだ。
今でも踏切のあの音は…出来るならば聴きたくない。でも、避けて生活は出来ない。大人になった今、私は踏切のあの音を聴く度に「・・・(無感情)」の自分と向き合う。
「死ぬ!」と言って家を飛び出す母親。
「殺す!」と言って家を飛び出す母親。
大阪に引っ越した伯母に電話したこともある。
「お母さんに殺される!怖い!殺される!」って助けを求めたこともあった。
「そんなことせぇへん。殺しはせぇへん。」伯母はそう言った。
電話の向こうで伯父の声がする。そして、伯父が電話に出る。
「そんなに泣くんやったら、もう二度と電話に出ん!」と言って電話を切られたこともあった。
「ほら!(兄)!これで(妹)を殺せ!」
ある日、母親はそう兄に言った。
目の前にある包丁は、当時の私からするともの凄く大きく見えた。
恐怖で立てなかった。けど、私は死を覚悟した。
「お母さん…私はいらない子なん?いらん子やったら、殺していいよ?」
はっきり言って…何度かそう言ったことがある。
「お母さんがそうしたいなら、そうしていいよ?」
その日は、無表情の兄の右手に包丁があった。母親が兄に持たせたのだ。
私は今日、お兄ちゃんに殺されるんや…。そしてお母さんは幸せになるんや。
泣きながら、何故か冷静にそう思っていた。
仰向けに倒され、その上に兄が跨がる。
でも、兄の手に握られた包丁は垂直に私の左腹部に落ちた。
今でもその傷は残っている。病院には行っていない。
お風呂場で鏡にうつる自分の姿を見て、その傷と毎日向き合う。心の傷だけでなく、この傷も一生残る。
その事実を大人になって、母と口論になって「あの時、殺そうとしてきたやん!」「してない!」「した!」「してない!」「いつまで嘘つくんよぉ…」。この会話を何度したか。
その口論が終わると、母は「私が死ねばよかったんや…。私がおらんかったら幸せなんや…」
部屋を暗くして、ずっと独り言を言う。その姿を見て「家族という病」というワードが私の頭の中をぐるぐると巡る。
何度か母親にもカウンセリングに行くように声をかけた。
私が以前、カウンセリングを受けている中でカウンセラーの方から「お母さんも一度、カウンセリングを受けてみませんか?」という声があった。
母は何度かカウンセリングにも行った。
場所を変えて違うカウンセリングにも行った。
けど…母は私にこう言った。
「今更、この性格を治すつもりもないし、必要だとも思っていない。こんな人なんや。私は間違ってない!私はこの性格のまま死んでいくんや」
カウンセラーからも「あなたの母親はもう駄目だ…。申し訳ないけれど、凄くつらいと思うけど…家にいること凄くつらいと思う。申し訳ない。」と言われた。
そっかぁ…。内心、母親に対してしっかりしてくれよ…って思った。けれど、もういい。それが私が出した最終の結果。もうこの時には私は成人していた。
大人になった今、母だけが悪かったとは思っていない。母を苦しめた父親も悪い。そういう大人を作り出した祖父や祖母。そうなってくると本当にきりがない。
でも、そういう状況から救ってくれなかった社会も悪い。
児童相談所にも責任はある。社会に問題がある。
近所からの通報で児相(児童相談所)の方が何度かやってきた。
「子どもの泣き声が凄い。怒鳴り声がする。」
玄関先で大人が数人いる姿を見た。でも対応するのは母親と兄。兄はこう言った「叩かれたりしてません。」
母親は私に出てくるな!と合図をする。外にいる大人と目が合った。その瞬間、私は身を隠した。お母さんに怒られると思ったから。
でもある時、一度だけその大人と話したことがある。
「怖いって思ったことはない?」
私は「うん」そう首を縦にふって答えた記憶がある。
それから何度が大人が訪問してきたが、
私たち兄妹は「保護されなかった」。
兄は父親から叩かれたあの日をきっかけに、自分の感情を抑圧し、麻痺させ、声を出さない。
泣いている私を、父、母、兄の3人で押し入れに長期間閉じ込めたり、
「はよ!はよ出せや!」と父と母が兄に荷担させる。
「いやや…お願い…いやや…」抵抗する私の手を兄が引っ張る。外に出されないように必死でドアを掴んでいる私の手を、兄がそっと引き離す。時にはドアに手を挟まれ「痛い…痛い!指がちぎれる!」って言ったこともある。私の指はその時の後遺症?で曲がっている。
暑い夏でも寒い冬でも関係なかった。
家族4人が暮らすには狭い家だった。
表に出された私は、自転車を1台置けるくらいの敷地に身を隠した。青いビニールシートの下に入り込んで、静かに身を隠した。
身を隠すにも理由があった。
表に出す時は、肌着姿にさせられる。
「恥ずかしい!あぁ!恥ずかしい!」母はそう笑って私を表に追い出す。指を指して笑う母。
まだ幼くても私にも恥ずかしさはあった。だから、身を隠す。
近所の家から人が出てくると、もっと身を小さくする。
でも、ある時…自転車のカゴに白いビニール袋を入れる手が見えた。
「こんなことしか出来なくて、ごめんなぁ…」
震えた声で語りかけてくれる。けど、顔は見えない。けど、誰だか知っている。隣のおうちのおじいちゃん。
菓子パンやジュースやお菓子が入っていた。
お腹が空いた私はこっそりとビニールシートの下で出来る限り物音を立てないようにして、こっそり食べた。
おじいさんの優しい言葉に涙がこぼれ落ちた。ありがとう…ごめんなさい…心の中で何度も言った。
それと同時に、生まれてきたことが悪いことだと思った。
私は給食の時間が大嫌いだった。
3時間目になると給食室から料理の匂いがする。吐き気がする。3時間目から具合が悪くなる。
給食を食べると必ずもどしていた。無理矢理「食べなさい」という先生。
でも…食べたくない。気持ち悪い…。
何故、そういう症状が現れたのかは今でも分からない。
給食を食べている最中にもどし、倒れて、その度に保健室に運ばれた。
私の体重は低体重だった。その頃は身長も低かった。近所に住む同年代の友だちから「ガリガリやぁ!ごぼうみたい!」と笑われたこともある。その度、悲しくて…。
私が倒れる度に、保健室の先生が家にいる母親に電話をする。最初の頃は「迎えにいきます」と言って迎えにきてくれた。無言で手を引っ張られ家に連れて返される。
途中からは「そのまま保健室で寝かしといてください。」そう母が言っていることを保健室の先生に聞かされた。
でも、保健室のベッドで寝ている時、私は安心感があった。
白いシーツで気持ちのよいお布団。何より私は小学生の時から不眠症だった。なかなか眠ることが出来きなかった。誰も入ってこなくて、ベッドの向こう側には保健室の先生が居てくれる。「安心」この言葉の他にはない。
何回か主任?の先生に「おうちはどうかな?」と聴かれたことがある。「りんごジュース飲む?」と言って私に紙パックのジュースを渡してくれた。
私はジュースを飲みながら先生と話をした。
家のことを聴かれても、何も答えてなかったと思う。(記憶がないだけかもしれない。)
「虐待」というのは、いつ始まるか…それは誰にも分からない。親でさえも分からないのだから。
虐待にも種類がある。
・身体的虐待 ・性的虐待 ・心理的虐待 ・ネグレスト
私の場合はこのすべてに該当する。(虐待は細かくあげると上記以外にもある。)
大人になった今、虐待の「後遺症」というものがある。
先日、オンラインカウンセリングにカウンセラーと話していて
「○○さんとお話しさせて頂いて思ったのですが、境界性人格障害じゃないなぁって。複雑性PTSDだって私は思うんだけど…○○さんも複雑性PTSDかもしれないって思って、今回カウンセリングを申し込まれたのかなぁと思って。どう思います?」
「う~ん…境界性人格障害の症状を検索してみたんですけど、あてはまらないなぁって思っています。」
そう私は今の主治医から「境界性人格障害」と診断されている。
「複雑性PTSD」「PTSD」と診断されたことはない。
けど、東京や兵庫の病院では「PTSD」と診断されていた。
今の主治医には、私の過去は全く話していない。
虐待を受けると「複雑性PTSD」といって、つらい症状が現れる。
普通の「PTSD」とはまた違う。
今、18歳未満の児童を対象に取り組んでおられる民間の方には、虐待を受けて育つと大人になってから「虐待による後遺症」と長いこと苦しむことを頭で理解するのではなく、感じ取ってほしい。
「子育て」と「虐待」は隣同士であること。
「うちは親の支援なので虐待は関係…ない…かな…」と言った方には、上から目線で大変申し訳ないが、もう一度考えてほしい…。
まだ書き切れていない幼少期の話しもあります。それはいつか、書けるようになれたら…!
ここまで読んで下さり、ありがとうございます!
どうか、児童虐待がなくなる社会に。
虐待死0を。一緒に考え、手と手を繋いで、横の繋がり(連携)して、一緒に問題に対して取り組み、解決できたらいいなぁと思っております。