2023_9th_week(2/27-3/5)
My new gear…
新しい眼鏡が手元にやってきました。MYKITAの眼鏡はこれで4本目です。
「顔はひとつしかないのに、そんなに眼鏡買ってどうするねん」と夫は言いますが、眼鏡の本数に人生の豊かさは比例すると思うんやで。
今週のロードレース
ストラーデ・ビアンケ ドンネ
今週は全てこのレースに持っていかれた。
誰も予想していなかった、チームメイト同士のスプリント対決。
チームメイト同士のスプリントは2002年リエージュ~バストーニュ~リエージュでベッティーニとガルゼッリが演じている。
彼らは握手をしてから、たった1人の勝者を決める戦いに臨んだ。
フォレリングとコペッキーには、ベッティーニとガルゼッリのような余裕はなかった。なにしろ単独先行していたフォークナーを捉えたのはフィニッシュまでわずか700mの地点、チームカーからの指示を仰ぐ時間も、ここまで協力してやってきたチームメイトの脚の残り具合を確かめる余地もなかった。
だから彼女たちは、ただ同時に放たれた2本の矢のように、フィニッシュラインが引かれたカンポ広場に飛び込んだ。
Rouleurの記事に書かれているフォレリングの言葉が興味深い。
フォレリングが言うように、彼女たちは「殺し屋」だ。そうでなければ、どうしてプロのトップアスリートとしてやっていけるだろう。
2人は最高のレースを演じた。物語はこれ以上ないフィナーレを迎え、スリリングなエンターテイメントとして完結した。
だけど現実は物語のように終わらない。レースは続くし、チームはこれからも勝ち続けなければならない。フォレリングが言う通り、彼女たちは一度チームメイトでなくなった。またチームメイトに戻ることは、できるのだろうか。
監督たちもこんな展開は想定していなかっただろうし、起こってしまったことをなかったことにはできない。だけどチームでレースをしている以上、勝者はチームが決めるべきだった、と私は思う。どの選択肢を選んでもしこりが残るならば、それはチームが引き受けるべきで、選手が負う必要はないだろう。
そうでなければ、チームスポーツとは何なのか?
(そもそも、ロードレースは、チームスポーツなのか?)
今週のロードレース以外と今週読んだ本
ブッツァーティのジロ帯同期(ディーノ・ブッツァーティ/安家達也訳)
ニワカオタクゆえ、ロードレースの歴史を学びたくて手に取った本。第2次世界大戦から復興するイタリアを走る1949年ジロの帯同記であるらしい。
当時のレースは一体どのような様相だったのか…とページをめくると、そこにあったのはレースレポートではなくファンタジーだった。
作者のブッツァーティは「イタリアのカフカ」と呼ばれ、幻想的で不条理な作風で知られる。この本では幻想的な方が存分に発揮されていた。
当時のプロトンを支配していたバルタリを若きコッピが打ち倒すというのが大筋だが、描かれているのはレースの詳細ではなく、レースの到来を心待ちにする群衆だったり、大戦で死亡した兵士たちの亡霊とブッツァーティの対話だったりする。そう、この本は「自転車のおとぎ話」なのだ。
スポーツを「物語」として語ることには、常に賛否両論が付きまとう。箱根駅伝や高校野球は極端な例だが、ロードレースとて例外ではない。
だけどこの本に関しては、ここまで面白かったらいいんでないかい、という気持ちになる程のぶっ飛び具合であった。選手の心理描写なども本人への取材が前提か疑わしいくらいなのだが、不思議と読ませる。翻訳もきっと上手なのだろう。
特に印象に残ったのは、いよいよ敗北が迫るバルタリを見守る民衆たちの様子を裁判に例えた章。
タイトルは「本日のイゾアール峠に関する最高裁判決」
レースの詳細を書かずに、レースによって引き起こされる様々をここまで豊かに語れるのかと驚いた。
ストラーデ・ビアンケの日、シクロクロス世界選手権を追い続けているフォトグラファーNBさんこと田辺信彦さんのトークイベントへ行ってきた。
現地取材をするに至った初期衝動、すなわちワウト・ファンアールトとマチュー・ファンデルプールの素晴らしいライバル関係について熱っぽく語るNBさんを見ていたら、愛が全てという月並みだが素敵な言葉が降ってきた。
「愛しかない、それが世界を動かしている」と言ったのは、確かボブ・ディランだ。私の自転車レースへの愛も、世界を動かす力になっているといい。