zoomは「つながる」ではなく「混ざり合う」他人と自分の境い目がなくなる世界。
zoomでつながり、感じていますか?
私は感じません(笑)
ここ数ヶ月新型ウイルスの影響で、ほぼ毎日誰かとzoomをつないで話している。でも「◯◯さんとzoomでつながった!」「心のつながりを持てた!」という感覚は実は持てていない。人と会えない状況の中、私の存在を認知してくれている安心感や、話しあいの中でパッションのぶつかり合いを感じることはある。でも、オフラインで感じる「誰かとのつながり」とは違うように感じている。
これは決して「オンラインって冷たいよね」とか「やっぱり直接合わなきゃだよね」とかそういうことではない。なんなら、私はオンライン会議やイベントは、とても良いと思っていて大歓迎だ。開催場所に行かなくて良いし、色んな方と出会えるし、zoomライフを楽しんでいる。
なのだが、良い悪いではなくて、zoomの時間で醸成されるものは「つながり」じゃないんだなー。では、なんだろう?と考えてみた。
そこで思ったのが、zoomって、混ざり合う世界なのかな、と。特に複数人で何かを話し合う時。
オフラインだと年齢や性別やファッションなどの視覚情報が第一印象として飛び込んでくるところだが、オンラインだとそのあたりがぼんやりして、あまり入ってこない。替わりに、最初から言葉のパワーが強い。
その言葉たちは、まるでzoomという箱に投げ込まれるカラフルなボールのように、会話を深めていくことで、どんどん種類や色が増え、かき混ぜられて、混ざり合っていくかのようだ。
箱は誰の発言、誰のアイディア、と分かれておらず、全て大きな一つの箱に入っていく。そして参加者はその箱をそれぞれの場所から眺めている。
昨年、教育家の藤原和博さんという方が「これからの時代は他人の脳と自分の脳をつなげて自分のリソースにする拡張脳という考え方を持とう」というお話されていた。その脳の一部を取り出して皆で眺めてみると、こんな感じではないだろうか。
または、ヨガ哲学に出てくる、自分と他者との垣根のない世界という考え方に近いとも思う。
各々は、その箱の中から、誰かのボールや、皆で作ったボールの組み合わせを、手元の箱にコピーしておく。
そして、zoomが終了したらみんなで眺めていた箱はなくなってしまうのだけど、コピーしておいた手元のボールは自分というアプリケーションを通して使用可能になる。その時に、誰のもの、という意識は無い。
ということで、私はzoomはつながる、ではなくみんなで投げ込んで混ざり合う箱なのだと理解している。
(おしまい)