~鬼滅の刃からの学び③~感謝することが義務になっているのは、知識として覚えただけだ
~お読みになる前に~
基本的に「鬼滅の刃」テレビアニメ立志編と劇場版無限列車編を観た上での、個人的な学びや感想、気づきを書いています。
ネタバレがあることと、知識が充分でないことをあらかじめご了承ください。
今回の話は、テレビアニメの第3話を見て
派生して気づいたことをお話しします。
第3話では、
鬼殺隊入隊を目指して鱗滝さんのもとで修行中の炭治郎。
大きな岩を刀で切るという最後の訓練で
「錆兎(さびと)」という少年に出会います。
実は錆兎は、炭治郎の師匠、鱗滝さんに師事していました。つまり炭治郎の兄弟子ですね。
でも、残念ながら、炭治郎が出会った時は既に亡くなっているので、その姿はつまりは、霊・・・?!
でも、炭治郎はその錆兎に出会ってすぐ。
頭をガツーンとされるような一言を言われます。
「お前は何も身につけてない。
何も自分のものにしていない。
特に、鱗滝さんに習った呼吸術、全集中の呼吸!
お前は知識としてそれを覚えただけだ。
お前の体は何もわかっていない。
1年半もの間、何をやっていた!」
このセリフ。
私自身も、はっ!!!としました。
私は10年以上前から心理学とか潜在意識とか、人の内面に関することを学んできています。
なのでSNSでもその辺の人間関係の繋がりがあるので、そこから更にいろんな知識、情報を得ることが多々あります。
ここ数年、よく目にしているのが「感謝」という言葉です。目にし始めた頃は、
「出会いに感謝」「ご縁に感謝」なんていう、
これを言っとけばみんな食いつくんじゃね?的な感じ、
お花畑みたいな感じ、が否めなくて違和感だったのですが。
ここ最近、
「常に感謝をしていれば、人生がうまくいく」
みたいなものをよく目にするようになりました。
で、ある時にたまたまピン!ときて、ある方のオンラインセミナーを受講したところ、「常に感謝をしていれば、人生がうまくいく」的なことの解説に共感し、
ワークを実践するようになりました。
(仕事がうまくいくとか、家庭環境や人間関係がよくなるとか、お金の巡りがよくなるとか)
でも、毎日そのワークをやっていても、
学びを振り返ってみても、
劇的に何かが変化したか、っていう手ごたえをイマイチつかめずにいました。
そしてある時、
「ワークが習慣化されてはいるけど、意味あるんだろうか、
形骸化してるんじゃないだろうか」
「そもそも感謝することってわざわざ習慣化することなのか」
と疑問に思うようになりました。
いや、もちろん普通に人間社会で生きているんですから、いろいろな人やモノや出来事に感謝することはたくさんあります。
でも、それをまるで全集中の呼吸の常中のように、
寝ても覚めてもなにかに感謝していなければいけない、って義務的のような気がしてきたのです。
そして、
私は、そのワークや意識を習慣化することで得られると言われているメリットを
見返り的に期待しているに過ぎなかったんじゃないだろうかと。
つまりは、私も錆兎の言うとおり、
知識としてセミナーでの学びやワークを覚えたに過ぎなかった。
だから、義務的のように感じたり、違和感を感じたりしたんだと思います。
そもそも。
私は自分にも感謝をちゃんとしていなかった。
自分が生きていられることに、まずは自分に感謝してなかったし、労っていなかった。
大切にしきれていなかった。
いや、自己肯定感をあげる意識はあったし、それが大事なことも知ってる。
でも、それだって知識として覚えたにすぎない割合が多いのかも。
そしてゼロベースで捉えなおしてみた結果。
何のためにそれをやるのか、明確に腑に落ちてなかった。
だから自分のものにできていなかった。
そりゃあ、岩も切れないわな。
ゼロベースにして以降、私は無意識に感謝することが増えました。
そして、自分にとってよくないことが起きたとしても、
入口はネガティブに捉えて何かのせいにするけれど、
しばらくすると視点が変わっていて、
「でも●●があるから、ありがたいことなんだよね」
って自然に思えることが増えました。
そしたら。
自分自身がとっても楽になりました。
前よりは・・・生きやすくなっているような気がします。
例えば。
挨拶も変わったと思います。
もちろん、人として挨拶は自分からするよう心がけてますが、朝職場に出勤して、
それまではあまり気にしていなかったロビーやトイレを掃除をしている人たちにも、
気持ちよく挨拶できるようになりました。
感謝してなかったわけじゃないけど、意識が向いてなかった。
結果的に感謝してなかったのかも。
だから、多分・・・心の余裕というか、視界が広くなったというか。
学んだことを知識として覚えたに過ぎない
自分のものにしていない
これって、誰にでもあることだと思います。
自分のものにするっていうことがどういうことか、
錆兎は私たちに投げかけてくれているような気がします。