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【書籍化の夢】【経歴】【生い立ち】【ビジョン】 矢内綾乃の「夢を叶えるまでの本当の話」 No.002

矢内綾乃@リケ女社長です。

この取り組みは、「先生!ぜひ、先生のやって来たことを書籍化しましょうよ!」と声がかかった時に、「あ、もうできてますよ!」というための取り組みです。
けして、note の書く内容につまったからではありません(笑)

ということで、書籍化の依頼が今日来たという想定で、
【経歴】【過去の振り返り】【山あり谷ありの起承転結】【これからのビジョン】を書き連ねて行きます。

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過保護なお母さんと、いちいち厳しいお父さん
群馬の富岡市というところに生まれまして、世界遺産の富岡製糸場のあるところです。
JRは通っておらず、上信電鉄という2両編成の私鉄が走っていました。

父親は、高崎にある設計事務所の社長さんで、
母親は、茶道と華道と英語の塾の先生をやっていました。
まだ、バブルが弾ける前で、とても日本の景気が良い時代でしたね。

お婆ちゃんは、富岡市内のどこに行くにもタクシーで、チップを1000円渡していたのを覚えています。今のご時世、チップを渡すことも、渡している人も見たことはありませんが。
父親におこずかいを頂戴というと、「おとうの事務所のバイトの子だって1時間500円で働いているんだから、お前もおこずかい欲しかったら、何か見つけて仕事をしろ!」と言います。
母親におこずかい頂戴!というと、5000円ポンっとくれたりします。

母親に、子供だけで旅行に行きたい!というと危ないからやめなさい、と言います。
父親に、子供だけで旅行に行きたい!というと「事業計画書を出して、おとうが納得したら、行っていいぞ」と言います。

スキー旅行に行くと、
父親は、小学生の娘二人を雪山の頂上まで連れて行き、あとは自分たちで降りてこい、と一人で滑って行ってしまいます。
母親は、寒いから温泉に行こう、アイスクリーム買ってあげるよ、と言います。
こんな感じで、母親には過剰な過保護を受けると同時に、父親は子供扱いや女の子扱いをしないで、大人に接するように扱われました。
今思うと、面白い組み合わせの両親に育てられたな、と思います。

不思議なもので、過保護な母親は戦争を生々しく体験した人です。逆に父親はそれほど空襲などない場所で育っています。

母親と、その両親であるおじいちゃん、お婆ちゃんは、満州戦争の生き残りです。
母親は小学校低学年まで満州にいたと話していました。
年齢だと、6歳とか7歳とか一桁の時に日本が戦争で負け、敗戦国の軍人であるおじいちゃんたち男性は先に日本に帰るしかなかったそうです。
満州の現地に取り残されたお婆ちゃんとお母さんは、中国大陸を2年かけて歩いて帰ってきたことを繰り返し聞きました。
満州を出るときは200人ほどいた日本人の奥さん、子供が、日本の舞鶴港についたときには7人くらいになっていた、ということも聞きました。
道中の、爆撃機が発砲してきて転がりながら堀に逃げ込んだ話。
草むらに行ったら、飢餓でお腹がパンパンに膨れた人が死んでいた話。
空き家だと思ってのぞいたら首をつっている人を見つけてしまった話。
小さすぎる子は、泣いてしまうので、兵隊さんに見つからないように、この世を去った話。
お婆ちゃんは寝ていても数十キロ先の兵隊さんの足音が聞こえ、夜中に気づいて納屋の藁に隠れたら、兵隊が到着し、次々と打たれ、藁も槍で刺されたけれど、当たらずに生き延びた話など、戦争の生々しい現実に起きた話を何度も繰り返し聞きました。
繰り返し聞いた戦争の話は、平和になった後の日本しか知らない私の人生観にも大きく影響を与えたと感じます。
今平和でも、どうなるかわからない危機感を感じてしまうことがあったり、戦争のニュースを聞くと涙が出るほど悲しくなるのは、小学生の時に、色付きの映像で伝わってくるほどに生々しく聞いた、満州戦争からの引き上げの話が、自分と体験と錯覚してしまうほどに色濃く記憶されたからかもしれません。

No.003 につづく


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