2024/08/05
正直に言います。
8/1の広島市長記者会見の切り抜き動画が、連日SNSで出回り、市長へ向けられる非難の声。
「最早彼はイスラエル擁護のシオニストにしか見えない」
「広島市長はカスだ」
「広島市長は上の指示に従うだけのただのパペットだ」
それを私は正当だと思うことができません。
広島市長の記者会見のフルが、公式YouTubeに上がっています。
再生回数は260回です。
みなさん、よろしければ早送りでも構わないので、「切り取られている部分以外」を見てください。聞いてみてください。
「フルで聞かなくたって、切り取った部分の発言のおかしさだけで十分責める要素は揃ってる!」
と思うかもしれません。
「心配すれば世の中思うように変えられるわけではない」発言など、不適切な発言もいくつもあったと、私も思います。
でも、拒絶する前に、会見をしっかり見てみませんか。切り取り動画だけで人の人格まで否定するのは、まだ早いと思います。
私自身、切り取り動画の部分だけ見た時と、会見を通して聞いてみた時とでは、市長に対する印象がガラリと変わったのです。
・
「核保有の抑止力に依存すると、国家間のちょっとした疑心暗鬼が引き金となって、原爆が使用されてしまうかもしれない。
それを防ぐには、国家同士の関係を良好に保っていくという方向性をとる必要がある」
これが、私が会見を見て受け取った広島市長の考えです。
一理あると思いました。
そして市長は、イスラエルがパレスチナにしていることを軽視しているわけではないと私は感じました。
必要最低限ではあれど、話の中で地域の名前を出して触れていました。問題を透明化しているわけではないと思いました。
では、なぜイスラエルの招待を取り消さないのか。なぜ招待するのか。
それは、イスラエルのような、いつ核爆弾を使用してもおかしくない国だからこそ
「平和記念式典」に招く必要があるからだと思います。
例えば、
イスラエルになにか平和に関する発言をさせるならば、それは完全に被爆者への侮辱に当たるでしょう。
今のイスラエル代表に、平和を語る資格など到底ありえません。
しかし
「被爆者の思いを世界各国へ伝え、被爆者からの平和のメッセージを共有する」
これが式典の目的だと、市長は言います。
もしこれが、広島平和記念式典の真の目的なのであれば、
核兵器に匹敵する暴力をパレスチナに振るい続けているイスラエルとは、被爆者のメッセージを今一番受け取って欲しい相手なのではないでしょうか。
「もうどうせイスラエルには何を言っても無駄だから」と諦めてしまうなら、そこまでです。
対話の可能性を諦めたら、もうあとは武力に頼るしかない、という方向に行ってしまいます。
分かり合えない他者との対話を、諦めるわけにはいきません。
そしてもうひとつ、
イスラエルに対し、制裁を加えたり、招待を取り消したり、強硬な態度をとることができないと判断するのは、
今イスラエルに敵対視されることがどれだけのリスクを伴うかを理解しているからだと思います。
本当は、恐れずに、虐殺NOと言った方がいいに決まっています。
しかし、ガザ地区へイスラエル軍がどれだけの爆弾を落としているか、その過激さを見ているからこそ、できない判断があるのではないでしょうか。
「私の判断ひとつで、もし攻撃対象と見なされてしまったら。」
広島市及び広島平和記念式典の長という立場の判断には、私たちが想像しきれないほどの責任が伴っているはずです。
これは少し、突飛した意見に思われるかもしれません。会見を見て、私が想像したことに過ぎないからです。でも、そういったことが考えられている可能性があると思いました。
広島市長は、ただ上の言いなりになる口なし人形ではなく、自分でちゃんと考えを持っており、それを発言に反映させていると感じました。
もし、あなたが、切り取り動画を見て不快に思ったとしたら、そこで完結しないで
その人の言葉を、一度聞いて欲しいと願います。
そして、その言葉を受け取った上で批判をするならば、それはもっと的を得た、説得力のあるものになると思います。
・
原爆投下から79年が経とうとしています。
私の祖母は、終戦の年に小学校へ上がりました。終戦後の激動の時代の話はたくさん聞くことが出来ますが、戦時下の記憶は、きっとおぼろげでしょう。
そのため、私は戦争の体験について話を聞いたことがありません。
もうあと20年もすれば、この世から第二次世界大戦や原爆の体験を語ることができる人はいなくなります。
地球上の全員が、非当事者になるのです。
平和記念式典を巡って今起きている抗議は、
主催側と市民との間に、「平和の式典は何のために行うのか」という部分の認識のズレが生じているために起こっていることのように思います。
実は、そこの解像度が高くない人の方が多いのではないでしょうか。
漠然と「平和全体を願う式典」とすると、一つの式典で扱うにはあまりに範囲が広すぎるように思います。
一つ一つが、取りこぼされるべきではない重さを伴うからです。
当事者でない私たちは、もう一度式典の目的や、平和を語ることの意味について考え直さなければなりません。
そして私は、
平和式典は、何人たりとも参加を拒絶したり、拒絶されたりするべきではないと考えています。
ロシアも、ベラルーシも、北朝鮮も、イスラエルも。
'核を使わない'と決めている者たちだけで、
被爆者のメッセージを共有する。
それが、本当に核兵器を使わないということに繋がるでしょうか。
むしろ、核兵器を軽々しく扱う者たちにこそ
被爆者の思いを届けなくてはいけないと思います。
理想論かもしれません。
でも、平和式典に、'参加するべき'国はあっても、'参加するべきでない'国は無いと私は考えます。
追記
こちらは、広島平和祈念式典に先立って、2024/8/5に書いた文章です。
パレスチナに連帯することで知り合った方々の中では、私が持っている意見はかなり少数派であると感じています。故に、投稿する勇気が出ませんでした。
投稿することで、自分や、見た人が傷つくかもしれないと思いました。
でも、聞いて欲しかった。話し合ってみたかった。
「現在進行形で虐殺を続けるイスラエルに、平和を祈る資格なんてない」
それも最もだと思います。
その主張も正しい。
でも私にとっては、私の主張も正しい。
誰かにとって、間違いであっても。
この世には、同じ事柄に対して正解がいくつもあります。正義が、いくつもあります。
だから、ぶつかることもあります
でも、そのぶつかりを大切にできる人になりたい。だから、投稿しました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?