嬉々として見捨てる
立春が過ぎ、季節もエネルギーも変わっていくのを感じる。
春は出会いと別れのシーズンなんて言うけれど、最近は「見捨てること」って大事だなと思っている。
困ったちゃんに、構ってちゃん。自らの人生を自らの手でご機嫌に出来ない人は意外と多い。努力はしているのに全然報われない、こんなにやっているのに幸せになれないアピールが煩い人も多い。
ネガティブになるなというわけじゃない。
全ての感情はあっていい。隠したり貯めたりすると、爆発する。どちらかと言うと直視せよと思っている。
その「ネガティブ感情の直視」という行為を、一人で出来ないために他人を巻き込むことがある。相談だったり、飲みながらの愚痴だったり、現れ方は様々だけど、一人で扱いきれない「ネガティブ感情の直視」の処理を他人に委ねる人がいる。
かつては、「ネガティブ感情の直視」を委ねられると嬉しかった。必要とされること、頼られることで自分の価値が増すと思っていたからね。
質問を繰り返し、核心をついて相手が号泣したりすると「ほれ見ろ」と気持ち良くなっていた。
月日が経ち、『何か出来ても出来なくても、自分には価値があるのじゃ』と思えるようになってきても、しばらくは「ネガティブ感情の直視」のお手伝いは好きだった。自分に当てはまる部分や、自身の学びに繋がる部分を見つけられたので、自分にとっても意義ある時間だったから。
なんだけど、最近はもう飽きた。
きっともう「ネガティブ感情の直視」のお手伝い要員の役割が終わったんだ。人は成長する。役割も変わっていく。わたしがお手伝い要員をやらなくなった分、成長してその空席を埋めてくれる相手がこの世のどこかに生まれている。
本当はお手伝い要員なんてやりたくないのに、ずっとその席に居座ってると、誰かの活躍の場を奪ってしまうことになる。そんなのお互い不幸。
だから、気が向けばやるけれど、基本的に「ネガティブ感情の直視」のお手伝い要員は今後はやらない。なんならお金をもらってもやりたくない。
今のわたしが楽しく出来ることをやる。例えば、やりたいことを語る相手に、いいねいいねって景気付けてエネルギーを加速させたり、知っている具体的な方法を問われたら教えたり、こうやって想いを文章に込めたりね。
もうじゃんじゃん見捨てて、わたしの楽しいことに力を注ぐよ。そうやって、背中で魅せて「そっちにいきたいな」って思わせたいの。
それじゃあ、お先に失礼♪