目に見えない世界④「死んだ犬が大活躍」
東日本大震災もショックだったが、その3日後に、愛犬が死んだことがもっとショックであった。
朝の5時台に、ダンナから電話があった。
「犬が死んだ」って。
レオと過ごした数々の瞬間を思い出しているけど、どの姿もいつもどおりで、彼の普通どおりの毎日の中の死に、何か頭がさがる。
外に出て水を飲んだりおしっこしたり、ガラス戸にごろごろしたり、風に吹かれて匂いを嗅いだりしていた。
サラダを作っていると、レタスの音に聞き耳をたてて、ブロッコリの芯や、小松菜のしっぽをあげた。
ときどき変な呼吸をして、そのまま呼吸が止まりそうな、変な感じがしたのを覚えている。はっとして横たわる犬を見た。
犬はいつもどおり、横たわっているだけだったけど。
時々、ダンナが外から帰ってきた時に、玄関から中に寝転がっている犬を見て、
「おい!生きているか?」と聞いていたことも思い出す。
犬は必ず生きていて、薄目を開けてこちらを見ていた。
犬が倒れたと聞いたときに、もう犬に会えないという死を覚悟したけど、それから2週間、犬は頑張って週末に帰ってくる私を迎えてくれた。
震災後も、単身赴任地に旅立つ前に、犬の毛かきをして、最後に頭をなでて、額の犬くさい匂いをかいだ。
「もうすぐお母さんは帰ってくるから、そうなったら一緒にロング散歩をしようね。だんだんレオも元気になっているしね。もう少しだから待っているんだよ。」
そんなことを犬に言った。犬はいつものようにつぶらなかわいい黒い瞳でじっと私を見ていた。
元気そうに見えたけど、やっと、生きていたのかもしれない。
犬の死んだ週に、個人に異動の内示があった。
単身赴任になったときに、ダンナと引き離される悲しみと共に、犬の1年は人間の7年に相当するという犬の寿命がすごく気になったけど、とうとう現実になった。
そうしてみると犬の命日である3月14日は、3年前、単身赴任の移動を告げられた日である。この3年、考えてみれば私も犬もダンナもカラダのどこかかしこが悪くなり、それぞれが自分の病を乗り越えて、震災の津波の停電の夜を共に過ごして、心の安らぎを感じていた。災害時を家族と過ごせる幸せ。ろうそくの明かりだけで過ごす、3人だけの幸福な静かな夜だった。
津波がレオの命も運んでいってしまったなあ、とダンナと話した。
その前年、ダンナの大事な友達が海辺の交通事故で亡くなったのも、なぜか津波の数日後だった。我々はそれからしばらく海辺には行かなかった。
犬と共に過ごした約12年間。
楽しい思い出しか浮かんでこない。彼の死ぬ年である11歳の時に私は病気休暇で、彼と180日一緒に朝から晩までいれたのは、神様からのプレゼントとしか思えない。春の美しい自然と共に、彼と歩いた川べりの道の美しさ。人生は美しい。自然の中を歩く楽しみをレオが教えてくれた。
犬の介護もあるんだろうなと思っていたけど、レオはあっさり、旅立ってしまった。そこまでいい子でなくてもいいのにな、とちょっと思う。
もっと私に手間をかけさせて欲しかった。わがままだ。でもほんと君のことは大好きだ。ずっとこれからも。いつでもうちに戻っておいで。
そして、君が教えてくれた美しい川べりの道を、私は一生歩いていく。
ありがとう!レオ。可愛い子!きみはずっと我が家の宝物だ。
犬の死の当日は10人ぐらいの人に、「犬が死にました」と報告した。
さりげなく報告して、涙が出てくることもあれば、笑顔で言っている時もある。ジョン・レノンが殺された時、びっくりしたけど、どんどんジョンの死んだ年月が増えてきて、精神的に落ち着くといったら変だけど。これはやっぱり慣れるということなのか。「犬が死にました」と他人に言うたびに、そのことが現実になってくる。そのことに自分が慣れてくる。
でも、犬のいない単身赴任地での話。
ダンナみたいに犬と共に過ごし、犬の爪が金属の玄関の扉にぶつかるかちゃかちゃいう音や、犬がかっかっかっと歩く音を日常的に聴いていた人間には、全然、慣れないことだろうと思う。
普段は全くメールをよこさないダンナから、何度かメールが来ていた。犬のビデオを観て大声で泣いているとか、もうちょっとそれに浸りますとかあった。レオの前の一ヶ月しか飼っていなかった犬が亡くなった時も、すべてをダンナが片づけてくれて、私は犬の火葬とか全然タッチしていない。
今回もそう。犬のなきがらも見ていないし、火葬にも立ち会っていない。
ダンナからのメール。
「通夜の酒はしみる。家の中の時間は止まっている。
カチャカチャした足音が聞こえない!
でもレオ君はまだイイ。
火葬場には津波で亡くなった犬がひっきりなしでした。」
青森県死者3人と出ている。きっと宮城県や福島県の惨状を見て、大急ぎでみんな避難したから被害が少なかったんだろう。
でも死者3名の裏に犬は何頭死んでいるのだろう。報道もされない。つながれたままの犬の死。きっと福島や宮城にもいっぱいいるんだろう。
犬以外のペットもいろいろ。
亡くなった人々や犬たち、ペット達の死を無駄にしてはいけない。我々は自分とペット達の命に責任を持ち、思う存分生き抜いてやろうと思った。
そして私は、犬の死の数日後、八戸に帰れることになった。
また家族と暮らせる。しかし、なぜかあまり喜びは感じていなかった。それは、自分は3年で転勤するだろうと、思い描いていたから。(下北で3回冬を過ごすだろうと考えて、当時のハンドルネームは大好きな「剣客商売」の三冬にしていた。)私の単身赴任の終了は犬の死には間に合わなかったし、単身赴任地にいると果たして犬が生きているのか死んでいるのかわからないのだった。そこが単身赴任の恐ろしいところだ。
自分の家に帰ったとき、レオの不在の悲しみと、八戸に戻ってきた喜びが津波のように自分を襲ってくるのではないか。
単身赴任とは家族を分断させる、原発ぐらい害悪のある制度だと思った。自分は終わったからいいけれど、まだまだ単身赴任の人は職場にいるわけで、この不自然な制度は物凄いと感じる。
私は結果オーライで、むつ市も自分の職場も出会ったみんなも大好きで、この単身赴任は自分にとって意味のある事件であった。どこか精神的にも肉体的にもタフになった。
ダンナは、また、私のアパート探しをする夢を見ていたそうだ。
私は夢の中で保育園に勤める人になっていて、地震が起こり、みんなで外に飛び出した。そして、はっとして、子供達はどうなるんだろう?と思って、あわてて保育園に駆け戻った。そこで目が覚めたけど、そこは海辺で、津波が来ることをみんな知っていて、一斉に走り出したことを記憶していた。誰かの見た現実なのか夢なのかきっと我々はみんな意識のそこでつながっているのだろう。アパート探しが始まった人や、地震に会っている人もいる。この大地震でいろいろなことが他人事で無くなった。
ところで死んだ犬はどうやら私のために大活躍してくれたようだ。
下北のカレーの美味しい喫茶店で、「八戸大丈夫でしたか?」とマスターに聞かれ、私が間一髪で、のちに津波がきた海辺の道を何事も無く通り過ぎた話と、翌々日犬が死んだ話をすると、マスターは、
「ああ、犬が、先生の身代わりになったんですねえ」と言った。
また転勤が決まって、あねにメールすると、返信には、
「おめでとうございます!レオの魂がキミを連れて戻ったな!」
とあった。
なんだこの犬の大活躍ぶり!
レオの身代わりに連れてきていたゴールデンレトリーバーのぬいぐるみが、押入れの上の段から、にこにこと笑って私を見ているのに気がついた。
犬がなんかしている。なぜなんだろうなあ?
こういう不思議なことが自然に信じられるような感じがしている2011年の3月だった。だんだん目に見えるものだけで世界は出来ているんじゃないという気持ちになったのは、震災がきっかけだったのかもしれない。
わたしは犬であなたで単身赴任が終わった人で始まった人で津波に会わなかった人で津波で死んだ人です。
なんだ?これは…?
(3333字のぞろ目が出ました!さらに次へと続く( ^ω^)・・・。)