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読書会「始まりの木」✧♡

 「始まりの木」は読んでかなり気に入った。自分のココロにびんびん響く小説だった。借りて読んだが、自分でも持っていたい一冊だ。
 ネタバレはあまりしない一冊でした( ´艸`)

「少しばかり不思議な話を書きました。
木と森と、空と大地と、ヒトの心の物語です」--夏川草介

第一話 寄り道【主な舞台 青森県弘前市、嶽温泉、岩木山】
第二話 七色【主な舞台 京都府京都市(岩倉、鞍馬)、叡山電車】
第三話 始まりの木【主な舞台 長野県松本市、伊那谷】
第四話 同行二人【主な舞台 高知県宿毛市】
第五話 灯火【主な舞台 東京都文京区】

藤崎千佳は、東京にある国立東々大学の学生である。所属は文学部で、専攻は民俗学。指導教官である古屋神寺郎は、足が悪いことをものともせず日本国中にフィールドワークへ出かける、偏屈で優秀な民俗学者だ。古屋は北から南へ練り歩くフィールドワークを通して、“現代日本人の失ったもの”を藤崎に問いかけてゆく。学問と旅をめぐる、不思議な冒険が、始まる。

“旅の準備をしたまえ”

Amazonより

Aさん
 この本には付箋を山ほど貼った。一話目が弘前が出てきてとても身近に感じた物語。何が?と言われてもはっきり言葉にできないが、付箋は山ほど貼ったのです。言葉の意味のわからないものは辞書を引いたのですがすべてちゃんと意味がありました。2人の旅に誘われた感じで、じっくり、繰り返し読むのに良い本です。

Bさん
 私も付箋を一杯貼った。フィクションなのだけど、ある場所のルポルタージュでもある。神の存在についての物語。西洋は人間中心の神、日本は自然を神とする。科学は道具にすぎないが、それを忘れると人間は傲慢になる。私は目に見えないものは信じない人間だが、お天道様に手を合わせるのが私の信仰です。岩木山、嶽温泉が舞台なのも嬉しい。第三話が自分の故郷が舞台だったのでその大きな木を探してみたい。

Cさん
 とっかかりが、弘前、嶽きみ、お酒の八仙と地元のもので親しみやすい。スピリチュアルな本でもある。岩木山の姿、八百万の神、岩手山の姿、山の存在感などが迫ってきた。私も唯物論者だが、この本はなぜかわからないが、神妙になる。50代で難病の友人が早期退職して、衰えた体で、自分の見たいものを見る旅を始めた。その葬儀に参列した時に、自分一人だけが地震を感じた。小説に出てくる絵描きの青年、お遍路さん、不思議だが気持ちが訴えてくるものは信じるしかない。簡単に大木を切っていいのか、日本人が失ったものを作者は書こうとしている。

Dさん
 私はスピリチュアルなことが大好き。岩木山の風景も好きだし、岩木山神社の参道で空気が変わることも体験した。子供の最後の試合の時に岩木山に出雲大社の末社があり、また別な場所でと、おみくじを2度ひいたが、一つは手書きだが、番号が同じで、運勢も同じだった。藤崎千佳さんはスピリチュアルに興味があり、古屋神寺郎は冷静である。最近では山中のメガソーラーを見ると自然が無くなるようで不安になる。この物語の続きを是非、読みたいし、作者は、現役の医者ということなので、こういう先生に当たりたいと思った。

「障害」という言葉は、もともとは「障碍(障礙)」と表記されていたが、戦後、簡略字体を採用する動きに伴い、「碍」「礙」は「害」という字に置き換えられた。そもそも「碍」は「さまたげ」という意味で、「傷つける、悪い影響をおよぼす」という意味の「害」とは根本的に異なる。そのため、本来の意味を通そうと、現在は「障碍」「障がい」と表現する団体・個人もある。

「障害者があたりまえに働けるニッポンへ」のATARIMAEプロジェクトによる

Eさん
 小説で、障がい者の害の字が碍の字になっていた。そういうことをしっかり意識されている方なのだなと思った。前にTV番組で「論破する」っていう言葉が出てきたときに、その言葉を気に入っていたが、今になると「論破」という言葉の正しそうで正しくない薄っぺらさを感じる。言葉の流行りすたりもあるなあと思う。色々な景色が目に浮かうぶ小説で、桜とか、自分も見たことのある景色だと思った。主人公2人の掛け合いが、楽しい。

Fさん
 同じ作者の「神様のカルテ」文体の読みやすさというのか、すっと入ってくる。この小説とも出会って、この人の小説をもっと読もうと思った。
 神がかり的なものは、私は信じる方です。京都が舞台の話では思わず泣いてしまった。私の好きなタイプの本。霊感の強い友人と3人で寺下観音(青森県階上町)にお参りした時に、風がさあっと吹いて、苔に光が当たりキラキラと輝いた。その時に庭掃除をしている方に出会い御朱印帖に書いていただいた。でも、知人に訊くと何度行っても、誰にも出会わず、御朱印帖にもらえないらしい。不思議なことにその3人で行くといつも土地は晴れている。私は不思議な話を体験しているのです。

Gさん
 いい本でした。食べるもの、咲いている花、すべて身近に感じた。「神様のカルテ」はタイトルだけで避けていた。この小説の2人の主人公たちの掛け合いが漫才みたいで、気が合っている2人だ。柳田國男の話も出てきて懐かしい。日本はそういう国だ。桜は日本人にとって特別な花で、私自身にも、桜の季節と死が結びつき、苦手と感じていたが、最後の話に出てきた桜の美しさにぐいっとつかまれる気がした。家の裏の空き家に桜があり、満開だったのだが、数日後、桜が切られた。切られる前に見事に咲いた桜、そういうことがあるなと思う。

Hさん
 この人の本をもっと読みたい。2人の掛け合いに深さを感じる。
 私も目に見えないものを信じることができない人間です。でも、この物語の住職の話が身に沁みた。樹を切ることの重さ。民俗学への興味。私も山に行くようになり、元気になって、自然の中にある目に見えないものの力を、本を読んだ後に行ったら樹をじろじろ見て考えるようになった。
 登場人物がいろいろ魅力的でした。

Iさん
 好きな本。作者は医者で理系の人間だけどスピリチュアルなものを描いている。歴史とは未来のために過去を調べること。宗教が戦争の大義名分になるのが信じられない。西洋は人間中心、日本では人間は自然の中の一部。日本人の神は「灯台にすぎない」。「灯台を失くした日本人がどこに行くのか?」が研究のテーマ。お天道様が見てる。世間でもなく神でもないもの。それが日本人の道徳観。今は死語かも。神を信じるかどうかではなく感じるかどうかであるということ。これからは民俗学の時代と文章の流れから感じる。同行2人のエピソードが好き。お経の声も和尚様の声が良いと感じるようになった。日本人で良かった。

Jさん
 古谷神寺郎が40代後半とはとても思えない。この小説を読み、色々な日本の土地に行ってみたいと思った。もう一度詳しく読んでみよう!
 35年前、盛岡の社宅に居たとき、どん!と音がして誰かが帰ってきたかと思ったが、叔父が亡くなっていた。きっと会いに来てくれた。信じる信じないは別にして、有難う、感謝することを受け入れる人になろうと思う。

Kさん
 科学先行、理屈先行の現代。断捨離とか言うが、一つ一つのものに神様が宿ると考えたのが日本の歴史。現代は、人間が、神様から見放されている時代かもしれない。雨が降らないから卑弥呼が祈り、光る君へでは陰陽師がいて、政治と繋がっている。今「遠野物語」が気になって、「新釈遠野物語」井上やすしの本を読んでいる。京極夏彦も書いているようなので、現代訳でいろいろ読んでみたい。

あやのん
 「100分de名著」という番組で自分が絶対読まないような本の解説を聴くのが好きだ。宮本常一の「忘れられた日本人」が面白かった。観音講が姑の集まりで嫁の集まりも別な名前であったり、昔の日本の村は窮屈なのかもしれないが、うまくガス抜き出来ている社会だったのかもしれない。この物語には空海や柳田國男や、宗教観や自分の興味を引くことが沢山詰まっていた。自分でも近所を探求するご近所民俗学を始めたので、これからも探求したいと思う。



 みな、この本を好きなのだなあと感じる。
 読書会の本にはこういう本を選ばなければ!と思った💖✧♡

(☝2024年10月2日。読書会の記録:3333字)

 最後にこの本の中で好きだった言葉を記しておきたい。

 神について語る古屋の声は、しばしば熱を帯びる。
“無論、私がここで言う神とは、迷える子羊を導いてくれる慈悲深い存在ではない。弱者を律し、悪者を罰する厳格な審判者でもない。たとえ目には見えなくても、人とともにあり、人とともに暮らす身近な存在だ。この神は、人を導くこともあれば、ときには人を迷わせたり、人と争ったり、人を傷つけることさえある。かかる不可思議な神々とともに生きていると感じればこそ、この国の人々は、聖書も十戒も必要としないまま、道徳心や倫理観を育んでこられたのだと私は考えている”
 こういう古屋の大胆なフィールドから見れば、神と仏を区別する議論や、日本人が宗教を持つ民族であるか否かを問う議論そのものが、見当違いということになるだろう。
 少なくともこの国の人々は、古代から路傍の巨石や森の大樹をはじめとして、山や滝や海や島や、あらゆるものに手を合わせてきたのである。

神様がいるって感じることは世の中には目に見えないものもあると感じることと同じです。目に見えないものがある、理屈の通らない出来事がある、どうしようもなく不思議な偶然がある、そういう感じ方が、自分の生きている世界に対する畏敬や畏怖や感謝の念につながるんです。もし、目に映ることだけが全てだと考えるようになれば、世界はとてもシンプルで、即物的です。そういう世界だと、自分より力の弱い者を倒すことは、倫理に反するどころか、とても理にかなった生き方になるかもしれません。つまり勝てばいいんですから」
 千佳は一通り話してから、自分らしからぬ長口舌に、急に気恥ずかしさを覚えて口をつぐんだ。

第四話 同行二人(P204)

「感じるかどうかってのは、この国の神様の独特の在り方なんだ。例えばキリスト教やイスラム教やユダヤ教ってのは、みんな信じるかどうかってことを第一に考える。そりゃそうだ。神様自身が自分を信じなさいって教えているんだからね。しかしこの国の場合はそうじゃない。神様でも仏様でもどっちでもいいんだが、とにかく信じるかどうかは大きな問題じゃない。ただ感じるかどうかなんだ」
 とくとくと、酒杯に酒を注ぐ軽やかな音が響く。
「もちろん仏教の中にも信心が大事だって話はたくさんある。けれど、もともとは難しい理屈なんかない。大きな岩を見たらありがたいと思って手を合わせる。立派な木を見たら、胸を打たれて頭を下げる。大きな滝を見たら、滝つぼに飛び込んで打たれるし、海に沈む夕日を見て感動する。誰かが教えたわけでもなく、みんな、そうするべきだと感じただけの話さ。それがこの国の人たちの、神様との付き合い方だ」

本当はさ、と住職は頭を撫でる。
「神も仏もそこらじゅうにいるんだよ。風が流れた時は阿弥陀様が通り過ぎたときだ。小鳥が鳴いたときは、観音様が声をかけてくれたときだ。そんな風に、目に見えないこと、理屈の通らない不思議なことは世の中にたくさんあってな。そういう不思議さを感じることができると、人間がいかに小さくて無力な存在かってことがわかってくるんだ。だから昔の日本人ってのは、謙虚で我慢強くて、美しいと言われていたんだ」

第五話 灯火(P258)

 
 朝の散歩で小鳥がいつも楽し気に鳴いているが、観音様が来ていたのか!
 次は、ありありと観音さまをイメージしながら歩いてみよう。
 風の流れは阿弥陀様。

 楽しく、そして有難い。

 唯物論者の読書会の会員が、目に見えるものしか信じない人間だと言っているのに、不思議な体験を語っているのが面白かった。

 みんな、神や仏を信じて無いケド、感じてる( ´艸`)

 それがこの国の人たちの神様たちとのつきあい方なのですね✧♡


蜘蛛殿、神の御業です💖