読ログ#1『西の魔女が死んだ』 記憶に残り続ける、私の場所
春休みで時間がたっぷりあり、その時間を埋めるように読書をしている今日この頃。
幼い頃から本をよく読んでいたけれど、部活や受験勉強やあれやこれやしているうちに、勉強以外で本を読む時間がめっきりなくなった。
今月はもう10冊ほど本を読んで、ふと、ただ本を読むだけなのもなんだかなと思い、私の心に残っている本を記録に残していくことにした。
1番好きな本は何か?と聞かれると私が迷わず答えるのが
梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』である。
小学校の頃、朝の読書タイムという時間があった。
自分で本を持ってきて読むのが私の学校の定石だったけれど、その日、本を持ってくるのを忘れた私が教室にある本棚でたまたま手に取ったのがこの本だった。小学校4年生の時だった。
最後のシーンでは、全身に鳥肌がたって、涙でジーンとしたのを覚えている。
以来、10年以上たった今でも私の1番好きな本のひとつとして真っ先に思い浮かぶのがこの本である。
この本の何が特別なのか、何がそんなに好きなのか、
自分でも考えてみるけれど正直なところよく分からない。
言葉にできない。
それでも言うとするならば、
「世界観が好き」
というのが最もしっくりくる表現だ。
簡単に言えば、学校という社会で生きることに疲れた小学4年生の主人公、まいが魔女ことおばあちゃんの家で過ごし、修行を積む話だ。
ここでの魔女は、まいとまいの母が2人だけの時に呼んでいるおばあちゃんのあだ名のようなものであり、黒い服を着た魔女が魔法を使うようなファンタジー小説ではない。
この小説は映画化(実写化)されているが、一度も見たことはない。
それでも、この本を読むたびに私の中にはくっきりと、まいとおばあちゃんとの生活がイメージとして浮かんでくる。
私の『西の魔女が死んだ』は、私の中で映像化されているのだ。それを崩したくなくて映画は見ていない。多分一生見ない。
愛媛県のど田舎に生まれた私は、自然に囲まれて育った。
今は無き、父方の祖父母の家は山の中にあり、家の裏にはすぐ山、家の前は田んぼと畑が段々に3つ程あり、家の横と道路を挟んだ向かい側は川、玄関側と裏庭には鯉のたくさん泳いでいる池が1つずつあった。
稲を収穫している時に私の足にいた、巨大な黄色と黒の縞々模様のクモの姿を私は忘れられない。それ以来、クモが大嫌いだ。
家の横の川では、祖父が川の上にロープを引き、公園とかによくある端から端までレールで滑れるような遊具をお手製で作っていた。
妹と私はその遊具で何度も川の上をターザンのように滑った。
夏にはその川でスイカを冷やして食べたり、泳いでいるおたまじゃくしを必死で捕まえた。その川のふもとで野生のタヌキと出くわしたこともある。
裏の山では、ツクシやタケノコが沢山採れた。
でも私にとっては裏山はちょっぴり怖い場所で、夜になると山から怖い何かが降りてくるような気がしてならなかった。
道路を挟んで向かい側の川の土手にある空き地のようなスペースには、木いちごがたくさん実っていた。つぶつぶで、甘酸っぱい、野生の木いちご。
軽トラの荷台に乗って、夜の山の中を探検したこともある。
爽やかな夜風と、普段味わえない荷台から見える景色、
トンネルでこだまする、私と妹の「やっほー」
どんな遊園地よりも楽しくてワクワクする冒険だった。
今でも軽トラを見ると、その荷台に乗ってどこかへ行ってしまいたい気分になる。
この場所では、いつも新しい出会いが待っていた。
そんな自由で、野性味に溢れた幼少期の記憶を、この本は呼び起こす。
まいとおばあちゃんが一緒に作業をするシーンが私は大好きだ。
一緒にサンドイッチを作ったり、ベリーを摘んでジャムを作ったり、バーブティーを作ったり、手洗いでシーツを洗うシーン。
まいが自分のお気に入りの場所を見つけるシーンも大好きだ。
まいだけの場所。もっと心地いい場所にしたいけれど、そのままでいいような気もするような場所。このシーンを読むと、いつもデジャビュのような感覚になる。
まいは、ときにおばあちゃんとぶつかりながらも、徐々に自分の軸を定めていく。自分の感覚を得て、前に進んでいく。
なるほど、もしかしたら私はこの本を読むことで自分の感覚を取り戻そうとしているのかもしれない。
自然の中にいて、五感をフルに使っていた頃の私の感覚を。
残念ながら、その祖父母の家はもう無い。
私は、その場所には戻れない。
戻りたいのかどうかさえ分からない。
私が6歳くらいまでの記憶。
その場所に最後に行ってから、もう15年が経つ。
それでもなお、そこでの記憶は私の中にはっきり残っている。
みなさんにもそんな場所はあるだろうか?