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胸をあたためる

しんしんと泣いていると、ふと部屋が揺れている気がした。
その、ふと、の一瞬間、呼吸を止めて
わたしはわたし以外の揺れを探そうとする。
涙が流れたあとの頬はつっぱってしかたない。
揺れている。
ゆっくりと。
船のように、ただ夜風に凪いでいるのだろうか。
うちは、古いアパートだから。
褪せた桃色のカーテンのむこうを覗こうか迷ったけれどやめておいた。
ねむりたい。

うまくねむれるか、ふあんだな。
そんなときは、胸をあたためるといいと、いつか、朝子さんは言っていた。

「胸が熱くなりましたとか、心がぽかぽかするとか、よく言うけど、それもほんとにあるんだけど、手でさわるとわかるよ。いつも手のひらよりすこしだけつめたい」

仰向けになった胸に手のひらを置いてみる。
たしかに、手のひらのほうがあたたかく、
手を置かれた胸の、皮膚一帯がわずかに戸惑ったような気さえした。
仰向けた胸は平たく、ここが道ならば歩くのに心配は要らないだろう。
やわらかいものをあやすにはすこしさびしいような。
(もうひとつ毛布を敷いてやればいい感じ)
敷きものがあるならお弁当を広げてピクニックかな。
胸の上をちいさな人々が歩み、暮らしていく様子を
いつのまにか思うわけでもなく思っている。
なんでこんなことを考えているんだろう。

ねむりそう。

いつしか胸の上と、手のひらは同じあたたかさになり
ぼんやり揺れる部屋のなか
その夜、わたしは夢をみた。

とても大きいわけでもなく、とても派手なわけでもなく
でも夜になればちゃんと暗い海原のなかやわらかく光る客船を
煙のような雲のなかから見つめていた。

あれを好きだと思う理由は、月を好きだと思うのと同じかな。

仲間のひとりがそう呟いた気がした。
旋回するわたしたちのせわしない羽音のなか、その言葉はやけに澄んで聞こえた気がした。

初出:フリーペーパー「この星紀行」(2015年冬)

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