
時間と移動
デザイナーの仕事に就いたのだと、今の会社に入ってから実感するようになった。デザイナーの仕事はいびつな形をしている。私は「デザイン」って何なのか、最近までよくわかっていなかった。今わかっていることだってほんの少しな上に、注意深く言葉にしないと指の隙間からこぼしてしまいそうだ。
時折、思う。見たものは目の奥に溜まってゆくのかもしれないと。そして、この仕事は、デザインすることの外側にあるあらゆるものへ触れてきたこと、生きて、出会ってきたという経験が生きる仕事なのかもしれないと、雨に近い重たい雪に降られながら歩く雪道の途中で思い至った。「だとしたらなんだか救われる思いだな」そう独り言ちて、帰路を歩ききった。
手紙を書き出す前の時間も、手紙を書く時間だ。「一篇の詩は、詩人が生きたすべての時間から生まれている。」そう書いていたのは誰だったろう。確かに、会いに行く道のりも、会う人との時間に含まれていると感じる。
私は、誰かの本をつくるときは、そのひとの景色の中まで赴くことからはじめる。私たちは別々の窓をひらいているから、そのひとの景色がとてつもなく遠くにあることもよくある。でも、まずは歩いてそこにゆくのだ。
その道のりは目には見えない。だから原稿に向き合うこともなく、デザインラフを書くこともない私の日常がただそこにあるだけである。手を動かしていないこの時間がいずれ生まれる本に注いでいる時間だと信じられない日の方が、未だに多い。ただここからあなたを思うことが、エネルギーを傾けることだと、愛やまなざしを注ぐことだと、そのことは信じるまでもなくこの腹底からわかりきっているのに。
近頃は、本をつくりたいも詩を書きたいも「行きたい」になる。本の編集・デザイン作業は地点、詩作も地点、本を読むことも地点。すべていつもの部屋ですることだけど、ここではないどこかだと感じている。たぶん元はすべて同じひとつの地点で、それが私のいるところだった。私は、移動したのだ。他者と生きる時間へ。他者と生きる時間の中から、「そこ」へ出かけてゆくことを選んだ。
私がどこにいても、そこへ辿り着けるのは確かにその地点が在るからだ。そのことに感動さえ覚える。本をひらけば、本の中にしかない地点が広がっていることを忘れずにいられるだけで、日常の階層が透けてゆく。
私はここにいて、どこへでもゆこう。まだここにない一冊が形を持って生まれるために、私はここから何度でも出かけてゆこう。絶対いい本つくる。あなたとそこで会うために、本を作り続けよう。この日々も、あなたとの時間に含まれていることを、私はいつも忘れないでいよう。