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明滅への応答、安寧の水辺、手を握ること

ゆっくり明滅しているものが見える。
「見える?」そう尋ねられているような気がして「見えます」と言う代わりにしっかり頷く。そうするとまた同じようにほの明るく灯り、しずかに消えてゆく。見えますってもっと伝えるためにはどうしたらいいんだろう。見えていることをわかってもらいたいと思うのはどうしてだろう。きっと、消えないでほしいからだ。見えます。見えているから、消えないで。目をひらいて、そこまで向かうからもうすこし待っていて。

今もまだ見えていることがうれしくて目をひらいている。
他の誰に見えていようが見えていまいが関係ない。これはわたしのよろこびであり、他の何にも代え難い動機である。

信仰について考えていたら、こんなことを走り書きしていた。

「抱樸」のチャンネルで田口ランディさんとの対談を見ていた。「無宗教は無信仰ではない」という言葉に頷きながら、たぶん自分は何かを強く信じている人間なのに「何を」「どんな風に」信じているかって、言葉にしてきたことはそう多くないとふと思った。(田口ランディさんはここを人に問い続けてきたと話していらっしゃったけれど、わたしは絶対に面と向かって聞かれてもはぐらかすだろうなと思ったりしていた。そう、言葉にすることが難しいということだけはよくわかっている)

わたしひとり分の考え事の範疇において「信じる」と「わかる」の隔たりの壁はとてもやわらかい。信じるとわかるでひたひたになった水辺がわたしにとっての安寧の地なのだ。そこでは両者の態度を善悪ではからずにいてくれる。なぜならそれは相手の手をどんな風に握るかのふるまいの違いでしかなく、手を握っていることに変わりはないからだ。たぶんこれから他のやり方も覚えてゆくのだと思う。「委ねる」なんかが体得できたら、自分の性質上とても良いだろうな。(がんばりましょう)
もしかしたら「思い込む」という言葉を足してもいいかもしれない。人から見たらそこに何もないことを理解しているがゆえに「思い込む」という言葉によって、わたしひとりのための「信じる」や「わかる」を外へひらくことができる。友人が「みんな思い込む力が足りない」と真剣な顔で言ったとき、それが自嘲的な意味を少しも持たず、単純な胆力の問題を指しているのだと腑に落ちたのだ。深く心に思うという仕草で、強く強く手を握ること。握っていることが互いに疑えないほどに。

手の先に、名を持つひとはいない。いつでも会っているけれど一度も会ったことがない。内側の、だけれどすごく遠くにいる。自分で自分の内臓に触れられないみたいに。


何をどんな風に信じているか、うまく話せなくても失うものはひとつもない。誰にも理解されなくても、ここにあるものは損なわれたりしない。たとえ何もなくても方法が見つからなくても、誰にとってもそうした大事な場所や説明しようのない真実が自分の中にあるといい。あるだけでいい。あなたと共にそれがあるだけで、わたしは今よりすこし安心してこの世を渡ってゆける気がするから。

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