できることと、できないこと

こんにちは。
今日もお立ち寄りいただきありがとうございます。
前回の投稿から随分と時間が空いてしまいました。

さて、先日、とある方からご指摘をいただいたのですが
ふと思ったんですよね。

相手が心配しているのだから、ちゃんと理由を説明しなくちゃいけない。
と言われたのですが
そもそも、相手が心配していることに気付いていなかったんですね。
私はただ、驚いてらっしゃると思っていたので。
その驚いている姿に、えへへ、となっていたのですが、
特別に説明する理由もなかったものですし。。。

つまり、そのことについて「心配される」という認識が全くなかった私には
心配されていることに気付けない上に、
その心配を払拭するための言葉を持っていなかったんです。

それで、別の方はそのご指摘に対し
「心配してることに気付いた人が、それを言ってあげればいいんじゃない」
とおっしゃったのですが
なるほど、その通りだな、と思いました。

世の中には色んな人がいて、色んな考えがあって
それぞれに、持っている知識も経験も違う以上、
気付いた人がやればいい
というのは全てのことに当てはまるな、と。

しかし、残念ながら、
気付いた人がやればいい の精神を悪用してしまう人もいて
つまり、悪意を持って、気付いたのにやらない、
(他の気付いたに人に委ねる)
というパターンですね。

そこに悪意があるかどうかは重要で
例えば、小さなことで、我が家レベルでは
ティッシュがなくなったのに新しいのを出さない、とか
気付いたゴミを拾わない、とか
そう言うことでしょうか。。。。

昔、教員時代に尊敬する先輩先生が仰ったんです。
「正直者が馬鹿をみる世の中にしてはいけない」と。

その一言は、私の中に強烈に沁みついて
今も離れません。

それ以来、ふとした瞬間にその言葉を思い出して行動する、ということが増えました。

何気なく、やり過ごしてしまうことがあるけれど
出来ることは、気付いたらやる。

そんな単純なことですが、
出来ることは、気付くことは、人それぞれ違う。
という観点も忘れてはいけないんだな、と
改めて実感しました。

子どもに注意するときも
それが気付けることだったのかどうかというのは
結局、経験値によるんですよね。

私たちはいつだって、自分の経験したこと・知っていることは
相手も知っているだろうと思ってしまいがちで
そのうえで
相手が気付かない、やらないことに腹を立てたりするわけですが

そもそも、相手はそれを認識できていたのか

そこに着目するときっと
怒りは瞬時に消えてしまうこともあるでしょうね

ただし、そこに悪意があると話は別です。

そこに悪意が見えたとき
消えるはずの怒りは消えずに増大してしまうかもしれません。

そうはいっても
なぜそもそも悪意を持ったのか
そこに着目したらもしかして
その時はやはり、しかたないと思えるのかもしれませんね


なんだか禅問答のようになってしまいましたがつまり
私が言いたいのは

出来ること・気付けることは人によって違う。
ということです。
たとえそれが「出来ること」であったとしても
気付かない以上は「出来ない」のです。

気付けなかったことを指摘されても
それはその時は気付けなかったのだから仕方のないことで
それ以降、気付けるようになれたら
それが成長だということ。

そしてつまり
過去の気付けなかった過ちを指摘し続けるということは
そのことにまだ気付いていないというだけなんだ
ということに 気付いてしまいました。

なるほどこれは本当に終わりのない物語。
どこまでいっても
どこまでも続く。

そしてこのことについて
こうして考えることが今の私にとって必要だったんだなと思ったりして。

別件ですが、先日、学校での不満を話す子どもに
なぜ、その人と出会ったのかということの意味について話をしていたら
そのすぐ後に、たまたまYouTubeで勝手に再生されて
同じような内容を話している動画が流れていました。

身の回りに起こることにはすべて意味があるから
どうしてこの人と出会ったのか、
どうして今嫌な思いをしてるのか
そうことの意味を考えたら、何かわかるかもしれないね
というようなことなのですが

。。。その時は、「すごい、お母さんと同じこと言ってる!」なんて話していたのですが
今思えばやはり、聞かれているんですかね。
恐るべき社会です。。。。。

さて、話がそれてきましたので
この辺で失礼します。

最後まで散文にお付き合いいただき
ありがとうございます。

素敵な週末をお過ごしください。


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