じいちゃんと過ごしたラストイヤー
ブラジル時間 6時
その頃、日本時間 18時
会場に響く木魚の音、僧侶のお経と、
時折聞こえるすすり泣き。
祭壇には体育教師だった頃を彷彿とさせる凛としていて、
少しいたずらっぽい笑顔。
スマートフォンの小さな画面越しから最後の別れを告げた。
オンラインで葬儀に参列するのは初めてのことだった。
「はよ逝かせてもらえればいいんじゃがなぁ。」
ふと、祖父との会話の一コマが頭に浮かんだ。祖父の意識の先には病気の完治ではなく、死があるのだと初めて感じた時のことだった。
そんな祖父との時間を思い返してみたくなった。
◇◇◇
世界中で新型コロナウイルスが猛威を振るい、社会の状況は大きく変わった。夫の海外赴任帯同のためブラジルに住んでいた私は、退避一時帰国を余儀なくされ、久しぶりに実家で過ごすことができた。
一時帰国して2カ月が過ぎた頃だった。祖父が体調を崩した。
退職までのラスト10年間は校長として勤めた人で、83歳になっても周りから「先生!」と慕われ、飲み会に誘われれば喜んで出かけていく。登山や自然が好きで、毎年自分の誕生日には、乗鞍岳に登って季節の花の写真を撮る。
そんな介護という言葉とは無縁の祖父が、だ。
音を立てて崩れるように弱っていく祖父を目の当たりにし、“元気な祖父”しか知らない私は気持ちがついていかなかった。
祖父は散歩に出かけることも億劫になり、幸い寝たきりではなかったものの、一日中を椅子に座って過ごした。立ち上がるのはトイレに行くときだけ。今日はすんなりトイレまで行けたのに、翌日は廊下の壁をつたいながら歩き、翌週には転ばないように一歩一歩カタツムリのように前に進むといった具合だ。
もっと優しくしなければ。
そんな当たり前のことは分かってはいたが、子どものようにおやつを欲しがったり、大好きなお酒は毎晩義務のように飲んだりする姿に、正直腹が立つこともあった。
動けないのは怠けているだけじゃない?
それくらい自分でやってよ。と意地悪な自分がいつも言うのだ。
◇◇◇
祖父は、若いころから日記をつけることが日課で、一日の自分の体調についてもメモに書いて机に貼るくらいだ。そのおかげで頭だけはしっかりしていた。私が放つ嫌味も覚えていて、「また叱られてまったわい。」とペロッと舌を出し、お茶目な顔をして肩をすくめた。
だが実際、出来ないことがひとつずつ増えていく自分の状況を実感し、プライドは傷つき、虚無感に苛まれる日々と戦っていたのではないだろうか。
ある時、バランスを崩して転んでしまった日のメモを祖父に内緒で見たことがある。そこにはひょろひょろの字でこう書かれていた。
“〇月〇日 16時 転倒 みんなに大迷惑をかける”
◇◇◇
「風呂上がりに一人で着替えとると、時間がかかって、ま~た体が冷えてまうでよ。手伝ってもらえるとありがてぇ~。ええ孫やのぉ。」
「分かったから。右足あげて。」
「今まで正直に、まじめに、生きてきたんやけどな~。おかしいな~。」
「次、左足あげて。」
「こんに(こんなに)みんなに迷惑かけるつもりではなかったんやが。すまんな~。」
「謝らんでもいいの。足の爪、伸びてきたから切るね。」
「はよ逝かせてもらえればいいんじゃがなぁ。」
体を支えるため、脱衣所にある洗濯機に両手をつき、かすれた声で祖父はそう話した。祖父の骨と皮だけの小さな背中からは、今の自分への悔しさと、私に対するのであろう申し訳なさが滲みでていた。
どれだけでも長生きしてほしいと祈る私とは反対に、祖父は死を覚悟して、いや、むしろ望んでいるのではないかとさえ感じたのだ。
死んじゃうのかな?まだ大丈夫だよね?そんな風に自問自答を繰り返し、毎朝、寝室から起きてくる祖父を見てはホッと安心していた。
かといって私はできた人間じゃない。自分の思いとは裏腹に、祖父中心の生活にイライラし、口を開けばつい思いやりのない言葉が飛び出してしまう。そんな私に祖父はいつも言うのだ。
「優しい子やな~。お前さんは介護士になったらどうや?」
「うんまい!!この味付け好きや~!煮物の腕が上がったんじゃないか?」
「おれの病院のために仕事休ませてすまんな~。今日もありがとな~。」
そして決まって私は泣けてくる。
明日こそ優しい言葉をかけよう、明日こそ怒らないでいよう
明日こそ
明日こそ
◇◇◇
一時帰国から早いもので1年が過ぎ、私がブラジルに戻る日が迫っていた。相変わらず祖父は弱ってはいたが現状維持といったところだろうか。
入れ歯を新調するために歯医者に行くと、まるで野球部の中学生のように「ありがとうございました!」と、医者に向かって深々とお辞儀をするのだ。一緒にいた私は、恥ずかしかったが、医者や看護師が微笑んでくれる眼差しが嬉しくもあった。入れ歯の調子がいいといって、にこにこご飯を食べる祖父からは、まだまだ図太く生きてやろうという気さえ感じることもあったのだ。
出発の朝。
地元をまた離れる寂しさ、夫にもうすぐ会える喜び、家族の中で私だけが祖父の世話から解放される罪悪感、様々な気持ちが入り混じりながらも、大きなスーツケースと一緒に私は車に乗り込んだ。
「おれが死んでも帰ってこんで(来なくて)ええぞぉ~」
そう言って、祖父は玄関越しに笑って見せた。
神様は、これが最後の会話だとは教えてくれなかった。
◇◇◇
あれが最後になるなら、もう少し日本に残ればよかった。
あれもダメ、これもダメなんて言わず、大好きなお酒も和菓子もたくさんあげればよかった。
怒ってきついことを言わなければよかった。
手を握って、目を見て、もっと、もっと伝えたかったことがある。
大好きだよ、ありがとう、こんな簡単な言葉をきちんと伝えられなかった。
もう会えないという事実を突きつけられ、血の気が引いていくことが分かった。やり場のない後悔の念にかられ、届かない思いが次から次へと溢れてくるのだ。
そして気付いた。
祖父から温かい言葉をたくさんもらっていたことに。
昔から他人の悪口は言わない人だったので、死を意識してか否かは分からないが、きっと自分が空に旅立つ前に、温かい言葉を積み重ねて届けてくれていたのだ。
◇◇◇
大切な人たちと過ごす時間は、あとどれだけ残されているのだろう。
いつも余計なことは簡単に口から出るのに、肝心なことは伝える機会を失ったり、素直になれなかったりして、また言葉の保留ボックス行きとなる。
意識していないだけで、自分の思いを伝えられる時間には限りがあるはず。
特別なセリフじゃなくていい。
気持ちの全てを表さなくてもいい。
短い言葉でいい。
ただ、伝えたい思いをきちんと温かい言葉にして、少しずつでも、たくさん積み重ねていきたいと思えた。
祖父が私にしてくれたように。
#あの日の思い出
#おじいちゃん