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-4分小説- 淡いオトナの恋の後で。
涼子はセルフレジの前で焦っていた。支払い画面が何度もエラーを示す。後ろから順番待ちの人たちの視線が突き刺さる。
「なんでこうなるの…」心の中でため息をついたその時、ふいに声がかかった。
「大丈夫ですか?これ、よくタッチが反応しないんですよね」
そう手を伸ばしたのは、パーカーを羽織った男性。涼子より少し若いだろうか。慣れた手つきで画面を操作する。
「これで大丈夫だと思います」そう微笑む顔に、涼子はあわてて礼を伝えた。「助かりました、ありがとうございます」
「僕も同じことで焦ったことがあるんで」男性は軽く笑って、その場を立ち去った。
十年の結婚生活に終止符を打ち、実家に戻ったものの居心地が悪く、この街で一人暮らしを始めたばかりだった。ここでの新生活は、すてきなものになるかもしれない…涼子の心にわずかに希望が灯った。
「またここで会えたら」そううっすら期待していたら、神様が味方した。数日後、青果売り場でキャベツを手に取ったところ、聞き覚えのある声がした。
「やっぱり今、野菜、高いですね」彼だった。「本当ですね。キャベツがこの値段なんて。あっ、先日はありがとうございました」
「またお会いできましたね。助けてよかったです」
男性はカット野菜の袋をポンとひとつカゴに入れ、「また」と微笑み立ち去った。
「焦ることはない」そう自分に言い聞かせたのに、動かずにいられなかった。涼子は時に大胆になる。先に買い物を終えた男性を追いかけ、今度は涼子から声をかけた。
「あの、お近くなんですか?」
近所に暮らす大人同士の恋は進展が早く、距離は急速に縮まった。涼子は年齢的にも、もう子どもを持つことは諦めている。結婚にもこだわらなくていい。だけど、誰か素敵なパートナーと暮らす生活は、再び自分の人生に訪れてもいい気がした。
しかし、彼は涼子より五つ年下の四十歳。もしかして結婚して子供をもつとか、そういったことも考えているかもしれない…。
重くなりたくないけど、一緒にいたい。そんな思いで自宅の合鍵を渡そうとした時、彼の表情がふっと曇った。
「ちょっと、言っておきたいことがあるんだ」嫌な予感がする。
「俺、実は…誰か一人と真剣に付き合うとか、そういうの得意じゃないんだよね」苦笑いを浮かべた。
「デートとか、楽しく過ごすのは好きだよ。だけど、同棲とか結婚とか深い関係には、誰ともなるつもりはないんだ」
「結婚なんて求めてないよ」あわてて伝えたけれど、何も響いていないようだった。彼に悪気がないのはわかる。それでも、期待していた分だけ胸が痛んだ。恋が始まったと思ったのは、涼子のほうだけだったみたいだ。
部屋の中は静かだった。体が重い。涼子はソファに腰を沈め、スマートフォンを目的なくスクロールすることしかできない。指先が止まったのは、一本の短い動画。自分と同じように疲れた顔をした女性が映る。
「私が頑張っても、娘は全然言うこと聞かない。発達障害なんて治るものじゃないってわかってるけど…」その声はふと途切れた。「なんで私の人生って、こんなにうまく行かないんだろう、って思っちゃう…」
繰り返しリピートされる動画。涼子は画面の女性と一緒に泣いていた。境遇は違う。涼子に子育ての苦労なんて、想像もできない。それでも、彼女の言葉に共感した。
(あなたは私が持ってなくて、欲しいと思ってたもの、ちゃんと持ってる。それでも今、私と同じ気持ちでいる…。その気持ちを表してくれてありがとう)
彼の前では泣けなかった。だけどあなたのおかげで泣くことができた。誰の人生にも、うまくいかないことがある。だけど、うまくいくこともある。それもこれも、人生だ。人生は、良いも悪いもミックスされている。それが人生だ。
また明日の朝、涼子はいつもの時間に起き、会社に行く。夕方の電車に揺られ帰宅する。そんないつもの日常を生きる力が、もらえたような気がする。