-4分小説- わたしは、鏡より先に笑う。
35歳の夏美は、スーパーの総菜コーナーで立ち尽くしていた。冷蔵庫のガラスケースに並ぶ、色とりどりの弁当。どれもこれも美味しそうだ。でも、今日の夕飯はどれを選ぼうか。毎日のこの選択に、何とも言えない疲労感を覚える。
仕事から帰り、夕食の支度をして、家事を済ませる。気がつけば時計の針は夜10時を回っている。湯船に浸かり体を温めてからベッドに横たわっても、なかなか眠れない。夫の俊は、いつもと同じようにリビングで仕事をしている。
「ねぇ、俊。もう遅いから、明日にしない?」
夏美の声に、俊はパソコンから顔を上げて「ちょっと待って」と答えた。
夏美はため息をついた。スマホを開き、たいして興味のないSNSの動画をぼおっと流し見するしかない。キラキラと輝くその世界は、手の中にあるのに永遠に夏美のところには届かないみたいだ。
俊はよく働きよく稼ぐ。だけど最近ずっと、二人の間に温かさが感じられない。不妊治療ももう2年になる。病院に行くたびに、希望と絶望がせめぎ合う。俊との距離を感じはじめたのも、ちょうど同時期くらいからかもしれない。
翌日の帰りの車内で、ふと窓ガラスにうつる自分の顔を見たとき、ぞっとした。クマが濃くなり、頬がこけて、鏡の中の女は疲れていた。
どんよりした気持ちで、スーパーに立ち寄る。自炊したほうが、経済的にも体のためにもいいに決まってる。だけど、20時過ぎに帰宅したら、ご飯をたいて味噌汁を作るくらいが夏美にとっては精一杯だ。
カートを押しながら足早に惣菜売り場を目指すと、丸い背中をかがめ杖をつきながら歩く女性と、それを支えるように腕をとる白髪だらけの女性が、寄り添うように歩いてきた。老いた母親と娘。
夏美はカートを押していた手を止め、二人に道を譲る。”老老介護”という言葉が頭に浮かぶ、今の、今後のこの国が直面している社会問題。
夏美はまた暗い気持ちになりかけたが、すれ違いざま、背中を丸めた老女が夏美に優しく微笑みかけ、「若い人は羨ましいわね」と言った。思いがけない言葉に、夏美はハッとする。
彼女にとっては若いかもしれないが、夏美は自分の老いを感じていた。
人は、表面からわかることはごく僅かだ。幸せそうに見えて不幸な人間もいるし、その逆も。「人から見れば私は、毎晩惣菜を買って帰れる程度の財力と、理解ある夫を持つ、幸せな女に見えるのかもしれない」
ふと先ほどの二人の姿を追うと、老婆は会う人会う人に、「若くていいわね」と微笑みかけていた。少し痴呆が入っていそうだ。言われた側はびっくりした顔をしたり、軽く会釈を返している。老婆は、天真爛漫に笑っている。夏美の目に彼女たちは幸せそうには映らなかったが、老婆は笑っている。
その笑顔を見て気づく。
夏美は、もうしばらく、ああやって笑っていないと。もしかして、自分が笑わないから、鏡を覗き込んでも笑顔は見つからないのかもしれない。
これからの自分がどうなるかもわからない、子供は授からないかもしれないし、俊との仲も一体どうなっていくのか。就業時間中はずっと立ちっぱなしの販売職の仕事に、最近は体力的な難しさを感じてきてもいる。
不安なことを数え出したらキリがない。 先が明るいのか暗いのかもわからない。
だけど、だからこそ今、ここで笑おう。鏡より先に笑おう。
鮮魚コーナーのガラス窓にうつる自分に、夏美は微笑んでみせた。少し、元気そうに見えた。続けて、大きく深呼吸をし、子供のような思いきりの笑顔を、ニッとつくって見せた。