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『平家物語』(延慶本)の「鵯越」という坂の位置について

『平家物語』(延慶本)に「鵯越」という坂の名前の由来が書かれている箇所があり、そこには、

翁申して云はく、「伝へ承り候ふは、天智天皇、摂津国ながえの西の宮にすませおはしましし時、あまた小鳥を召されけるに、武庫山満願寺の峯にて鵯を取り給ふ。御使は大友の公家と云ひける人也。鵯をさげ、此の坂を越えたりけるに依りて、鵯越とは名付く。

とある。

引用箇所の「摂津国ながえの西の宮」というのは、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)のことと考えられる。難波長柄豊碕宮は中大兄皇子(後の天智天皇)らによって企画され、652年に完成し、孝徳天皇が遷都したといわれている、らしい。

「鵯越」と名付けられた坂は「武庫山満願寺の峯」の近くにあることになる。「武庫山満願寺の峯」から、「鵯越」と呼ばれた坂を経由して「摂津国ながえの西の宮」(難波長柄豊碕宮)へ戻ったと考えると、「武庫山満願寺の峯」の位置を特定できれば、『平家物語』(延慶本)のこの箇所に書かれている「鵯越」と名付けられた坂の位置がある程度特定できるはずである。

「鵯越兵庫区説」を執拗に唱えている方のなかに、なぜか、『平家物語』(延慶本)のこの部分を引用して、兵庫県神戸市兵庫区鵯越町に鵯越という坂があった証拠であると、主張されている方がいるようである。

その方の主張にはある特徴がある。

「武庫山満願寺の峯」の位置については、全く触れないという特徴である。

「武庫山満願寺の峯」の位置がわかって初めて、「鵯越」と名付けられた坂の位置が、ある程度、特定できるのであるが、全く無視して、説明しないのである。

ネットで調べられる範囲では、兵庫区鵯越町の近辺(兵庫区と北区)に、今現在、満願寺という寺院は存在しない。つまり、『平家物語』(延慶本)のこの個所だけでは 「鵯越」 という坂の位置が、兵庫区鵯越町であるとは特定できないということである。

いえるのは、現在、ここに「鵯越」という地名があるから、昔もあったに違いないという、意見である。

ネットで調べられる範囲では「武庫山満願寺」とピッタリ一致する寺院は、存在しない。

また、「武庫山」という山号の寺院や「満願寺」と呼ばれている寺院はあるが、兵庫県神戸市兵庫区鵯越町を経由して「摂津国ながえの西の宮」(難波長柄豊碕宮)へ帰るような場所ではない。

「武庫山」という山号の寺院は

「武庫山平林寺」(兵庫県宝塚市社町、摂津国)

があり、


「満願寺」と呼ばれている寺院には、

「神秀山満願寺」(兵庫県川西市満願寺町、摂津国)

「願王山万願寺」 (神戸市西区櫨谷町池谷、播磨国)

「法嶺山満願寺」(兵庫県三木市志染町三津田、播磨国)

の三つの寺院が確認できる。

「武庫山満願寺の峯」の「武庫山」を寺院の山号でなく「武庫山」または六甲山(系)と解釈すれば、「武庫山」という山号の「武庫山平林寺」は、『平家物語』(延慶本)の「武庫山満願寺」ではないことになる。

「武庫山」(六甲山の語源との説がある)を六甲山(系)と考えて、六甲山(系)にある「満願寺」の寺領(または管理する)の「峰」と解釈した場合、

「願王山万願寺」 (神戸市西区櫨谷町池谷、播磨国) は、不当表示で問題になった「六甲のおいしい水」が生産されていた神戸市西区井吹台東町の隣の町で、六甲山系からは遠く、

「法嶺山満願寺」(兵庫県三木市志染町三津田、播磨国)は、三木市なので、六甲山からはもっと遠い。

この二つの寺院も、『平家物語』(延慶本)の「武庫山満願寺」とは言えそうにない。

また、行基が摂播五泊(大輪田泊)を開いたといわれていることから、天智天皇の時代に武庫山へ行くとすると大輪田泊(兵庫県神戸市兵庫区)ではなく武庫泊(兵庫県西宮市の武庫川河口付近)

を使ったのではないかと考えると、最も近い寺院は「摂津国満願寺」となる。

ただし、武庫泊を「輪田の泊(現在の神戸港)とする説もあ」り、「武庫川河口付近は古代より武庫泊、武庫津、武庫浦などと呼ばれている。」らしいので、ここでは、呼称はともかく、難波長柄豊碕宮により近い武庫川河口付近の港を使ったと考えることにする。

しかし、その場合でも「摂津国満願寺」(兵庫県川西市満願寺町、摂津国)の現在の位置は、六甲山系より東にあり、「武庫山満願寺の峯」が六甲山系にあったとすれば、六甲山系にある「摂津国満願寺」の寺領または管理する地域にある武庫山の峰ということになる。

この「摂津国満願寺」について調べると、「神秀山満願寺」の寺伝では「奈良時代に聖武天皇の勅願によって勝道上人が日本全国に『満願寺』を創建すること」になり、「そのうちの摂津国満願寺」とされている。

満願寺は天智天皇の時代ではなく、聖武天皇の時代に建立されたことになるが『平家物語』(延慶本)が書かれた時代には存在したことになる。

現在の満願寺は、兵庫県川西市満願寺町にあり、最寄り駅は阪急雲雀丘花屋敷駅になる。現在の位置は、武庫川より猪名川に近いので六甲山地から離れていることになり、そのまま解釈すると鵯越の由来としては意味不明になってしまう。

摂津国満願寺の子院(末寺)が武庫山にあり武庫山万願寺と呼ばれていた可能性があるが、満願寺の古文書を調べてみないとなんとも言えない。

やはり、六甲山系にある「摂津国満願寺」の寺領または管理する地域にある武庫山の峰と解釈するよりない。

「満願寺文書」で検索すると、わりと簡単に見つかった。

それによると、

文亀二年(一五〇二)一二月一三日の伊志二郎衛門信弘屋敷売渡状案(満願寺文書)に「伊(孑)志庄」とみえ、庄内の屋敷一所は二郎衛門先祖相伝の私領で、直米六石五斗で芳蔵主に永代売渡している。

とあり、時代が多少前後するが、満願寺が兵庫県宝塚市伊孑志(いそし)あたりの支配に関係していたことが確認できる。

宝塚市伊孑志(いそし)というのは、武庫山(六甲山)山麓武庫川右岸の地名で、この地名をGoogleマップで検索すると武庫山(六甲山)山麓武庫川右岸だけでなく武庫山(六甲山)の住所も伊孑志(いそし)で、宝塚市伊孑志武庫山には武庫七寺の一つ塩尾寺(えんぺいじ)があり、塩尾寺のある武庫山は六甲山地(六甲連山)の東端といわれることがある、そうだ。

宝塚市伊孑志(いそし)左側の白い所が武庫山

武庫川を挟んで、宝塚市伊孑志(いそし)の対岸にある小浜には「いわし坂」という坂道があり、「平安時代に周辺が陸化するまで瀬戸内海が深く入り込む浜であった。」

そうである。

宝塚市伊孑志(いそし)近辺なら、難波長柄豊碕宮からは武庫川河口付近の港を使えばすぐ行けたのではないだろうか。

また、宝塚市伊孑志(いそし)には、武庫郡教育会編の『武庫郡誌』(大正10年)の「武庫行宮址」によると、孝徳天皇が有馬温泉を訪れられたおり、現在の宝塚市伊孑志(いそし)あたりに行宮(武庫行宮)を設けられたとの伝承が残っているという。

「天智天皇、摂津国ながえの西の宮にすませおはしましし時、あまた小鳥を召されける」というのだから、難波長柄豊碕宮から結構距離のある「輪田の泊」(大和田の泊)に行ってわざわざ兵庫区鵯越町まで行ったと考えるより、宝塚市伊孑志(いそし)の行宮もしくは孝徳天皇が有馬温泉を訪れた際の皇室関連の施設の近くの山(地理に明るい場所)で小鳥(鵯)を捕獲したと考えた方が自然ではないだろうか。

孝徳天皇や天智天皇のゆかりの地で、満願寺が関係する地域であることを考えると、宝塚市伊孑志武庫山近辺の山に「武庫山満願寺の峯」と呼ばれる山がありその近辺に「『鵯越』と名付けられた坂」があったと考えるべきだろう。

『平家物語』(延慶本)に書かれている「鵯越」は、「『鵯越』と名付けられた坂」とその坂を含む「鵯越」という播磨路の間道について書いてあると読むのが無理のない読み方ではないだろうか。

現在の兵庫県神戸市兵庫区鵯越町の「鵯越」という地名は、『平家物語』(延慶本)の同時代の一次史料でも二次史料でも、位置が確認できないことから、利用価値が低くほかに名称も付けられることなく打ち捨てられていた場所に、たまたま「鵯越」という播磨路の間道の呼称が残ったと考えるのが、自然だろう。

なお、『平家物語』(延慶本)については、『菊池眞一研究室都々逸』の「平家物語・延慶本・全巻」(延慶本・ひらがな版)、「平家物語・延慶本・読み下し 」(漢字ひらがな交じり)の両方を参照させていただき、「平家物語・延慶本・読み下し 」(漢字ひらがな交じり)の該当箇所のみを引用させていただいた。


リートン作:鵯越

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