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『吾輩は猫である』の怪気炎の正体

 漱石は、『文学評論』で『ガリヴァー旅行記』を「比喩譚」と呼び、「スヰフトの筆は詩的な所がない。頓才もあり風刺的でもある。又非常な達筆である。」と批評している。

 漱石が『吾輩は猫である』を『ガリヴァー旅行記』を意識して書いたとすれば、『吾輩は猫である』は、『ガリヴァー旅行記』の「詩的な所がない」点を補った「比喩譚」で「頓才もあり」「風刺的でもある」作品ということになりそうである。

 漱石は「頓才」について、「頓才の知的要素過重の極に達する時は、或は謎となり、或は所謂Conundrumに近きものとなる。之と共に其文学的価値は著しく減退する」と述べている。「頓才」は知的要素が過重になると、読者に真意を理解してもらえないのである。

 また漱石は、諷喩について、「諷喩の興味は二様」「一は地の文自身が文学的で面白いこと、一は地の文の裏面に潜む本意と表面にあらはれた意味との間に竝行を見出だすことの面白味である。然るに後者だけの興味では一向吾人に満足を与へない。」「諷喩で無いものとして、単にそれだけを味はつて見ると、何らの感興も湧かない。ヒユーモアにもヰツトにもならない。全く不合理不自然な所作として眼に映ずる丈である。」「比喩的に述べたものだなと理解し得た時に、始めて多少の興味を感じ得るのである。これとても唯知的に其処へ到着するものであるからして、其の興味たるや僅に謎を旨く解いた時位の快楽しか無いのである。」などと説明している。

 さらに漱石は、スウィフトの『桶物語』を例に「宗教史上の知識無いと、この書の諷喩は殆ど無意味で、知的にも何を云つて居るのか殆ど解し難いものに成る。従つて之を翫賞し得る読者は、多くの人間の中で宗教史を知る者、若しくは之に興味を有する者と云ふ条件がついて来る。からして此書の訴ふる読者の範囲は自ら限られなければならぬ。」と、宗教を風刺した『桶物語』の諷喩を理解するには、宗教史の知識が必要であると述べている。

 諷喩は喩えられていることの知識がなければ理解できないのである。

 つまり、「諷喩」も「頓才」同様に知的要素過重なのである。

 ここで一つの推理がはたらく、漱石が「諷喩」や「頓才」に使う比喩的表現が知的要素過重になることで減退する文学的価値を怪気炎と見せることで補っているのではないか、と。

 では怪気炎がどのようなものかというと、漱石は『吾輩は猫である』で「真理に徹底しないものは、とかく眼前の現象世界に束縛せられて泡沫の夢幻を永久の事実と認定したがるものだから、少し飛び離れた事を云うと、すぐ冗談にしてしまう」(第十一話)と述べている。

 これが怪気炎の正体である。

 つまり、普通人は「少し飛び離れた事を云うと、すぐ冗談にしてしまう」のである。『吾輩は猫である』が子供から大人まで読んで楽しめる作品なのは、漱石がその効果を巧みに利用しているからではないだろうか。

 漱石が「英雄」と呼ぶショーペンハウアーによれば現実と概念の不一致に気付いた瞬間に笑いが生まれるという。

 このことは、単に現実を表現していても、読者が現実であると思っていることと、表現されている内容との間の不一致に気付いた瞬間に面白みが生じることを意味している。

 漱石はこのような効果を巧みに利用しているのではないだろうか。

 漱石自身も『文学評論』で「ヒユーモアを有してゐる人は人間として何処か常識を欠いてゐなければならない」と述べており、漱石は、諷喩として表現すれば面白みに欠ける話しを、読者のステレオタイプ(常識)と作品中の人物が語る真理(非常識)との不一致によって面白みが生まれるように仕組んでいると思われる。それが怪気炎の正体である。

 読者が怪気炎として読めば、真理が理解できなくても面白味が減退することはないのである。

 だが漱石が、謎やコナンドラムになるものを怪気炎としているとすれば、文芸愛好家である文芸評論家はともかくとして、研究者がこれらを怪気炎と捉えてしまっては、研究者の存在意義がなくなってしまうのではないだろうか。

 このコナンドラムは、われわれには推理の楽しみを与えてくれるが、評論家や研究者には避けて通りたい難問となるようである。

 評論家や研究者たちが、諷喩と気付かずに怪気炎と決めつけて笑うのは、己の推理力のなさを笑っているようなものである。まるで漱石が『吾輩は猫である』の風刺の核心を怪気炎としてしか読めない文学研究者、博士たちを嘲笑っているかのようである。

 じつは漱石は怪気炎の正体が警察の諷刺であると推理できるようにヒントを残してくれている。

 漱石は、鈴木三重吉宛の書簡で「書齋で一人で力味んで居るより大に大天下に屁の樣な氣燄をふき出す方が面白い。」(明治三十九年一月一日付鈴木三重吉宛書簡)と述べているのだ。「気炎」が「風刺」だとすれば、「屁の樣な氣燄」と言う言葉から、さらに「屁」が「風刺」のことだと推理できる。そして『草枕』で「『しかし、いくら警察が屁の勘定をしたてて、構わんがな。澄ましていたら。自分にわるい事がなけりゃ、なんぼ警察じゃて、どうもなるまいがな』『屁くらいで、どうかされちゃたまりません』」と語られている「屁」も「風刺」と読むことができるのである。

 当時検閲があったことを考えると当然なのだが、漱石は『文学評論』で「警視庁では風俗取締の為に読む。是も検閲の為だから否でも応でも読む。」と述べている。

 このことはつまり、漱石が自身の作品を警察関係者が読むことを前提として創作していたことを示している。

 その事をふまえて「五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。」という『草枕』の文章は意味深である。

 さらに「屁を勘定するのは人身攻撃の方針で、屁をひるのは正当防禦の方針」となると、漱石が以前から自身が警備対象者になっていたことを知りつつ、検閲担当者に警察を風刺した個所(屁)を勘定させていたと、だれもが推理したくなるのではないだろうか。

 また漱石は『吾輩は猫である』で猫に「理はこっちにあるが権力は向うにあると云う場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、または権力の目を掠めて我理を貫くかと云えば、吾輩は無論後者を択ぶのである。」(第四話)と語らせている。

 「権力の目を掠めて我理を貫く」ための表現には、屁のような風刺がもってこいなのである。

 一般人の読者が怪気炎や諧謔として読む個所も、少なくとも警察関係者には風刺として読めたはずである。『吾輩は猫である』は、警察の風刺になっているのである。

 さらに「首縊りの力学」が実在する論文(Samuel Haughtonの " On Hanging considered from a Mechanical and Physiological point of view ")をヒントにしていることから、『吾輩は猫である』の未来予測の個所にある探偵化論、自殺論、非婚論も実在の論文などにヒントを得ていると推理できる。

 そしてもし『吾輩は猫である』が警察を風刺しているのだとすれば、探偵化論、自殺論、非婚論は、警察に関連する論文などを基にしていなければ、風刺にならないのである。

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