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一の谷は、哲学の丘⁉︎ 哲学者金子武蔵の故郷、一の谷山荘。

1913年(大正2年)ごろ、金子直吉は二の谷の屋敷(myトロッコのあった家)から一の谷に移り、造成した土地に屋敷(一の谷山荘)を構えた。

ヘーゲル研究などで知られる哲学者の金子武蔵(金子直吉の次男、岳父は西田幾多郎)先生は、一の谷山荘での生活が、哲学者になる切っ掛けになったと述べている。

武蔵先生は 『わが心の自叙伝(1) 』 (神戸新聞学芸部編)で

私にもふるさとに準ずるものがないわけではない。それはしいていえば須磨であり、とくに一の谷山荘である。――中略―― 九歳から二十四歳までの約十五年近くの間、この家は私にとっては生活の本拠であったのである。

須磨が、また一の谷山荘がライクロフトの隠棲したエクセター地方に似ていると感ぜられた

私を次第に実業から遠ざけて思想や文化に心を寄せさせた。仏教や儒学への素質が私にないわけではないが、しかし一の谷山荘がもつエキゾチックな環境は、それらへのあこがれを育てるには適していなかったので、外国の文化や思想に関心をいだくことになるが、他家との交渉の少ない一の谷山荘の生活において例外のひとつであるシュトレーロー家との交わりは、ドイツの思想へと私を向けたひとつの機縁でもある。

などと、

一の谷山荘がもつエキゾチックな環境(エクセター地方に似ている?)と隣人のドイツ人一家との交流が哲学者になる切っ掛けになったと述べている。

武蔵少年が、仲良しになったドイツ人一家には女の子と男の子がいたそうで、女の子のあだ名はオッツァンで、

このオッツァン、とんぼ返りを得意とする途方もないオテンバではあるが、母に似てドイツ人形そっくりのかわいい顔立ちで、スイセンのようなの清らかさをそなえていた。

あるとき私が海を指さしつつ、ゼーとかメーアとかいうドイツ語を使ったら、オッツァンはけげんな顔をしながら、関西弁まるだしで「なにいうてケツカルカ」と応じたのだから、全くお話にならない。

と、ドイツ語の勉強をしたかった武蔵少年の期待をみごとに裏切ったそうだ。

「かわいい顔立ちで」「とんぼ返りを得意とする途方もないオテンバ」「なにいうてケツカルカ」と奇声を上げる「オッツァン」(おっちゃん?)というあだ名のドイツ人少女、ライトノベルのキャラのようだ。

リートン作:オッツァンの住む哲学の丘

ちなみに、シュトレーロー氏(海軍に招聘された潜航艇技師らしい)は喘息持ちで病弱だったらしいが、夫人は屈強な美人で、ちょっと荒れた一の谷海岸(荒れると結構危険らしい)でも平気で泳いだそうだ。

庭にmyトロッコやmyグランドがあり、猿、熊、ロバなどを飼って(ワニは珍しさのあまりか竹で突っつき過ぎて死なせてしまったらしい)、ケッタイなドイツ人少女と交流した武蔵少年が、大人になると哲学者になるのだから、驚きだ。

リートン作:須磨浦を散歩する武蔵くん

日本の哲学者で出身地の環境が、哲学者になる切っ掛けだったとハッキリ言っている人は、武蔵先生以外いないような気がする。

極めて、珍しい事例だろう、たぶん。

西田幾多郎が散歩しただけの道を「哲学の道」と呼べるのなら、一ノ谷町2丁目は金子武蔵先生が哲学者を目指す切っ掛けとなった高台なのだから、「哲学の丘」と呼んでいい、だろう。


一の谷(一ノ谷町2丁目)は「哲学の丘」といっていい、かもしれない。

須磨には「智慧の道」という京都市東山区あたりにありそうな名前の道がある。

神戸のタウン誌には、

須磨寺と綱敷天満宮を結ぶ道は、弘法大師、菅原道真がともに「学問・智慧」と縁の深い人物であることから、「智慧の道」と呼ばれています。 この道を通ってお参りすると、知恵を授かり、学業成就のご利益があるかもしれません。

 と書いてある。

たしかに弘法大師や菅原道真の方が金子武蔵先生より、ビッグネームだが・・・、弘法大師や菅原道真の思想形成に「智慧の道」や須磨の環境が与えた影響は全くなさそうだ。

「須磨寺と綱敷天満宮を結ぶ道」を「智慧の道」と呼ぶくらいなら、一の谷(一ノ谷町2丁目)を「哲学の丘」と呼んだ方が自然だ。

兵庫県たつの市には、「三木清(たつの市出身)の哲学碑等の石碑が」あるだけで、三木清と無関係の山道を「哲学の小径」と呼んでいるそうだから、須磨の「智慧の道」の方がましかもしれない。

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